杉本純のブログ

本を読む。街を見る。調べて書く。

心理的自叙伝2

朝日新聞に「ロスジェネはいま」という記事が載っていた。ロストジェネレーションという言葉は朝日新聞がきっかけになって普及したようで、1993年から2004年ごろに社会に出た世代と定義づけられているようだ。私は、厳密にいうと映画学校を2005年に卒業したが、大学を卒業したのは2002年で、年齢的にはこの世代に当てはまっている。そして、この世代の多くの人が味わったであろう体験は他人事ではないと思っており、これは連載記事らしいので、ぜんぶ読みたいと思う。

今日「ロスジェネはいま」(上)を読んで思ったのは、取材対象者たちは自己肯定感が欠如している、あるいは著しく弱いのではないか、ということだ。たしかにこの世代は、政治や制度が変わっていく中で損をしてしまった人たち、とも言えるとは思うのだが、それでもたくましく生きている人はいる。記事に登場した人たちは、自己肯定感の低さ・弱さが、その思わしくない境遇に大きく影響したのではないか、そんな風に思うのである。しかし自己肯定感の強弱という問題に持ち込むと、この話題は世代論や政治・制度の議論では片付かなくなってくる気もする。

私の場合、自己肯定感というか、根拠のない自信のようなものはあって、小さな頃から俺は天才的だと思っていたし、俺が作った映画は世間をあっと言わせる傑作に必ずなる、などとも思っていた。けれども思っていただけで、それを周囲に示すことができなかった(学内のシナリオコンペで敗けた)。

そこで自己肯定感があれば、次はコンペで勝つぞと奮起しさらに良い作品を書くよう努力する。あるいは周囲の仲間を説得するなりして自主制作をやり、映画を作ってしまうかも知れない。実際にそういう人はいた。しかし私は、いつからかコンペに勝てる気がしなくなり、かといって、自主制作なんて自己満足に過ぎない、という思いもあって、自分で映画を作ったりもしなかった。つまり、私には自己肯定感はなかったんだと考えている。

自信はあったが周囲に実力を示すことができず、それでいて、同じように力を示せていない人が自主的に何かやろうとするのは見下す。そんな状況になり、孤立めいた状態になっていった。

根拠のない自信、言い換えれば誇大妄想を抱え、それが現実を突きつけられ打ち砕かれて、自信を喪失する。それでいて、同じような状態にある人は軽蔑する。こうなると、前進できなくなるだけでなく、似ている人に共感することや助けを求めることもできなくなってしまう。挙句、心理的な漂泊者になってしまう。。

これは私の心理的自叙伝の断片に過ぎないが、ロスジェネ世代の不遇な人の中には、これに近い道を辿った人もいるのではないか。そんな風に思う。