杉本純のブログ

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蔵書始末記7 『ランボー詩集』

青春の思い出

処分することにした本の思い出を書く「蔵書始末記」。今回は『ランボー詩集』(堀口大學訳、新潮文庫、1960年改版)です。

本書を最初に読んだのは大学生の頃で、当時の私は藝術を通して人生の真理を掴みたいという思いの強い、文学青年風のイタい学生でした。そもそも頭の悪い大学でしたが、そこの学生だった私は周囲の学生を馬鹿としか思えず、読書と映画に耽って自分の世界に閉じこもるところがありました。本当の自分って何だろう、といった、不安にも似た漠然とした疑問を抱きながら過ごし、それでいて、バイト先などでは陽気に振舞っていたものです。

本書は、一人で大学のある街の城址公園に行き、天守閣跡の草の上に寝そべって、読み耽りました。「酔いどれ船」「みなし児たちのお年玉」「黎明」などは、繊細な心理の巧みに表現し、かつ、それが溜め息が出るほどの絶美な文章で綴られていて、深く感動したのを覚えています。

「地獄の一季」はよく分かりませんでしたが、ランボーの精神的な動揺、あるいは危機のようなものが感じ取れ、とにかくすごいものを読んだ気がしたものです。

アニエスカ・ホランド監督の映画『太陽と月に背いて』(1995年)は、たしか本書の影響から観た映画でしたが、あまり感心しませんでした。また、澁澤龍彦が『快楽主義の哲学』(文春文庫、1996年)で、人間を人間以上の存在にする、といった思想が歴史上に幾度か登場したとして、ランボーの「見者」の思想もその一つだと書いていました。たしかに「地獄の一季」や、ランボーが詩と訣別した際に書いたという文章などを読むと、ランボーは何かとてつもない理想を実現しようとしていたのが察せられます。しかし私としては澁澤のそういう見方よりも、詩を捨てて武器商人になったランボーに「文学から実業への転身」というテーマを見出し、挫折を経て新しい道へと踏み出すリアルな青年像を思い描きました。

日本では小林一三や森稔などが同じような転身を遂げたと思いますし、逆に、二葉亭四迷などはやっぱり文学を捨て切れなかった人なんじゃないか、と思っています。

私はランボーの詩は堀口訳でしか読んでいませんが、ランボー好きの古書店主が以前、中原中也の訳が一番いい、などと言っていました。こちらは読んでいません。いつか、よほど時間があれば読んでみたいですね。

…思い出し始めたらどんどんエピソードが出てきます。本書はごく薄い新潮文庫ですが、意外なことに私の青春時代の思い出がけっこう詰まっています。それはとても苦いものですが、自己形成の過程での大切な体験だった気もします。お別れしよう思っていましたが、やっぱりやめようかな…。