杉本純のブログ

本を読む。街を見る。調べて書く。

心理的自叙伝5 おくのほそ道

かつては「おくのほそ道主義者」だった

久しぶりの心理的自叙伝です。

以前、このブログで「おくのほそ道主義」という記事を書きました。物事は何でも突き詰めればいくらでも深く掘り下げることができる、つまりどんなことにでも「おくのほそ道」はある。けれどもそれはやりたい人が勝手にやればいいだけで、べつに偉いわけではなく、まして他人にその「おくのほそ道」を歩めというのは、言われた側にとっては迷惑でしかありません。

しかし、思い返すと私はけっこう先鋭的な「おくのほそ道主義者」だったように思います。映画や文学など、自分が勉強して掘り下げていることについて、それをしている自分は偉いと思い込み、周りを見渡しては見下していました。そして、見下すことで「俺すごい」と安心することができ、精神の安定を保つことができていたわけです。映画や文学は、こだわりを持つ分野であると同時に、承認欲求を満たす精神の支柱のようなものだったのかもしれません。

けれども、思うにそれは情けないほど中途半端なこだわりで、その道のプロと言われる人と対等に話ができるほどではありませんでした。ゴールデン街などでたまにそういう人と話す機会があると、色んな角度から突っ込まれることが怖くて早々に退散してしまっていたように思います。敗走した後は一人で俯いて道を見ながら、ぶつぶつと言い訳めいたことを口にして敗北感をごまかしていました。要するに『阿Q正伝』の阿Qが得意な「精神勝利法」を使っていたわけですね。

中途半端なこだわりなので、とうぜんお金を稼ぐことなどできません。今から思えば、どうすればその分野でお金を稼げるようになるかを考えるのが、こだわりをさらに磨く早道だったわけですが、当時の私は迷妄の塊で、意味なくただこだわって自尊心を保とうとしていたのです。

映画や文学は私にとって、当初は面白いから突き進む「おくのほそ道」でしたが、いつしか言い訳の道具になり、ちっぽけな自尊心を保つための頼りない支柱になっていったように思います。

見方を変えると、私は「ワナビ」から「こじらせワナビ」へと変貌していったということです。けれども今、一つ言い訳をするとしたら、映画や文学の世界に入ってくる若者、およびその世界に長くいる中高年者たちは、ほとんどが私と同じような中途半端な「おくのほそ道主義者」であり、「こじらせワナビ」でした。そういう者たちはそれぞれ自分の自尊心を守るため、お互いにマウントの取り合いをして承認欲求を満たそうとしていたのです。私は、そういうレベルの低い争いに巻き込まれ、無意味に応戦して、傷ついた挙げ句さらにこじらせる、を繰り返していたように思います。

スポンサーリンク

 

 

正気でい続けるのは難しい

過去の自分をそのように分析できるようになったということは、私は上記のような質の悪い「おくのほそ道主義者」を卒業できたのかもしれません。

思うに、「おくのほそ道」はけっこう危険な世界です。突き詰めれば突き詰めるほど同行する人は減り、孤独に陥ります。そして孤独は狂気につながりやすいと私は考えています。自分を過大評価したり過小評価したり、変に被害者意識を持ったりしかねないと。要するに常識を失うということで、そうなると生活も人生も悪い方向に進んでいく気がします。

一方で、「おくのほそ道」は魅惑的な世界でもあります。それは生活や人生を深く味わう糸口であり、うまく進めばお金を生み出せるようになるからです。大切なのはバランスです。狂気に陥らない程度に孤独になり、そこで見つけた果実を世の中に提供していけるといいと思います。

それは簡単ではありません。正気でい続けるのは、存外難しいのです。

ところで、このブログタイトル「心理的自叙伝」は、なんだか小難しそうなシリーズ名ですが、これは私が学生時代に読んだ『ランボー詩集』(新潮文庫、1960年改版)に書いてあった言葉です。ランボオの「地獄の一季」について、ヴェルレーヌは「彼に特有のダイヤモンドの散文で書き綴られた不可思議な心理的自叙伝」と評しました。心理的自叙伝。つまり自分の心情の変遷を主軸とした自叙伝ということでしょうけれど、馬鹿な学生だった私にはなんだかカッコイイ響きでした。このブログでは、自分の過去を振り返り、そこに見出される心情と行動を断片的に綴る際に、なんとなくこのシリーズ名を冠しただけです。特にランボオを意識しているわけではありません。