杉本純のブログ

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ワナビはワナビを遠ざける

樫原辰郎『『痴人の愛』を歩く』(白水社、2016年)に、谷崎は文学青年に興味がなかった、という興味深い記述がある。谷崎と今東光の関係を紹介するくだり。

この時代、人気作家のもとには、作家志望の若者たちが弟子入りを志願したり、自作を読んでもらうためにいきなり訪問したり、誰かの紹介で会いに来たりということが行われていた。芥川のように、そういう文学青年たちの相手をして、真面目に作品を読む人もいたようだけれど、谷崎はそういう訪問者を片っ端からシャットアウトしていたという。そんな谷崎が、なぜ今を手元に置いていたかというと、彼が文学青年というよりは、根っからの不良だったからだろう。

そういえば、岡田時彦も、いきなり谷崎のもとに現れたが、門前払いはされていない。それは岡田が映画俳優志望の美少年で、作家になりたいわけではなかったからだ。谷崎は文学青年には興味がなく、不良少年が好きだったのである。

岡田時彦は俳優で、女優・岡田茉莉子の父。今東光については、この引用の後で「根は文学青年」と書かれている。根が不良であり、かつ文学青年だったということか。

とまれ、谷崎が文学青年に興味がなくシャットアウトしていたというのを知り、ちょっと考えた。私の認識では、谷崎は小説で身を立てると決意した若い頃は焦燥で神経衰弱になったこともある、いわゆる「元ワナビ」だ。『『痴人の愛』を歩く』には後にこんな記述がある。

 谷崎が活躍した時代には、文学を志す若者が大勢いた。谷崎自身もまた、そういう文学青年のひとりとして仲間たちと共に作った同人誌を世に問い、そこに発表した小説が先輩作家の永井荷風に評価されて作家になった人間だ。

そういう谷崎が、現ワナビは遠ざけていたのだ。しかしこの感覚、なんとなく分かる気がする。

当然のことながら、元ワナビが現ワナビに寛容かというと、そうとは限らない。ちなみ私は映画を志すワナビだったが、映画の道を諦めた後、脚本を書いているというワナビから作品を読んでくれと頼まれたことがあったがそんなのは絶対に読みたくないと思い断った。

『『痴人の愛』を歩く』にはこうも書かれている。

 孤高の作家として知られる谷崎だけれど、友人はやたらと多いし、人づきあいは良かった。佐藤春夫とも芥川龍之介とも、兄弟のように親しくしていた人だ。そんな谷崎が、文学青年を遠ざけていたのはなぜか。それは彼らの文学熱が、実態のない芸術への憧れ、もしくは自己実現への渇望にすぎないことを見抜いていたからではないか。これは一種のロマン主義批判だ。

なるほど、ワナビ時代を通過した人は、自分がワナビ時代に渇望し追求していたものが、実態(実体)のない空虚なものだったことを知っているのだろう。現ワナビが自分を慕っているとしても、それは現ワナビの勝手な幻想を投影されているに過ぎないのを知っているのだ。だから、そんな人と付き合っても何の得もないし、下手をすれば迷惑を被るだけだということが分かっている。だから遠ざける。

思えば私も昔、いくたりかに自分の幻想を勝手に投影していたように思う。勝手に師匠だとか先達だとか思い込み、自分を可愛がってくれると決め込んで近寄ったりしていた。それで冷たく遠ざけられたことは少なくない。相手からすれば、やたらと痛い、鬱陶しい奴だったのだろう。