杉本純のブログ

本を読む。街を見る。調べて書く。

蔵書始末記

「死蔵」では何の意味もない

年末の大掃除をしているつもりはありませんが、自宅の蔵書を大量に処分している最中です。

読書生活のスタイルを蔵書派から図書館派に切り替え、電子書籍による読書も増えてきたため、よく使う本以外は売り、売れない本は思い切って処分することにしたのです。

蔵書には、メルカリで見ると驚くほど高価で売られている本も少なくありません。欲しい人の手に渡るならけっこうなことだし、高く売れればそれもまたけっこうだと思います。メルカリで二束三文ならブックオフにまとめて売りに出すこともできます。何年も触っていない、「死蔵」に等しい状態の本の有効活用するにはすばらしい環境が整っていると思います。

メルカリにはお金稼ぎ目的の転売ヤーもいると思います。実際にそういう人に買われたと思われる取引もありましたが、それでも死蔵に比べたらいいだろうと考えています。
私は、「知」はその人のものですが、知を媒介する「書物」は共有されていいのでは、と最近は思っています。だから、創作や研究の資料として常日頃から手に取るのでない限り、どんどん市場に回していいんじゃないかと考えています。

財産というものはすべからく、所有者に利益をもたらし続けるべきであり、創作や研究にも使わない死蔵本はもはや財産ではなく「負債」です。一方、世の中には「愛書家」という、平たくいえばコレクターがいますが、これは「所有することそのもの」に価値を感じている人なので、この場合は厳密には死蔵ではありません。

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日本文壇史』を手放す

伊藤整瀬沼茂樹の『日本文壇史』(講談社文芸文庫)は、索引巻も含め全25冊が揃った貴重なセットですが、このたび手放すことにしました。漱石の死までを詳細に辿った日本近代文学の資料であるものの、私の守備範囲からはかなり離れていて、頻繁にページを開くことはこの先もなさそうだったからです。

実はこのシリーズ、図書館への寄贈も考え、実際に問い合わせてみました。しかし対応者の態度から察するに、恐らくこういう本の価値が分からないアルバイトらしき人でした。それは仕方ないのですが、本の寄贈後の扱いは図書館側に一任され、寄贈者はその行く末について知ることもできません。それもホームページに書いてあったことではあるものの、どうも貴重な資料を歓迎する雰囲気がなく、受け取られた後に検討され、廃棄される、ということになりそうな感じがしました。それでは私の目的は達成できないと思い、寄贈はせずに売ることに。

他にも、今では珍しい高価な絶版本も数多あります。これらが、それを求める人の手にわたり、よく活用されたらいいと思います。