杉本純のブログ

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「恥ずべき崇高さ、偉大なる屈辱」

あらゆる藝術に言えること

近ごろそんな言葉を知ったのですが、面白い言い回しだなぁと思いました。

劇団四季について調べていて、創立者浅利慶太座右の銘としていた言葉だと知りました。元々は、フランスの俳優であり演出家でもあったルイ・ジューヴェの残した言葉であるらしいです。

演劇をやり続けることにはさまざまな問題がつきまとうものの、中でも最も本質的な問題は「当たる・当たらない」で、つまり劇場がにぎわうかどうか。崇高な思いで舞台をつくっても観客が集まらなくては劇団は維持できない、観客獲得のためには恥に塗(まみ)れるような努力が常に必要なのだと。

要するに、プライドだけいっちょ前で高邁な藝術をやっていると自覚していても、劇場がガラガラなら劇団は存続できない、それよりも、同業者に低俗だとか大衆迎合だとか罵られようが、あるいは評論家づらしたディレッタントな観客から馬鹿にされようが、劇場を観客で埋めることができれば俳優やスタッフたちは生活でき、劇団を維持できる、ということでしょう。

その通りだと思います。そしてこれは演劇に限らずあらゆる藝術、また事業や商品開発、研究などにも言えることでしょう。

この場合の「崇高」と似ているのが「自己流」だと思います。自分のやり方や価値や真実にこだわり、そこから少しでも逸脱するのを拒めば、それは混じり気のない「自分」を表した仕事になるでしょう。けれども多くの他人はそんなものには興味がないのです。

もちろん、かといって人の興味のあるものばかり追いかけ、オリジナリティのないものばかりを出し続けてもダメだと思います。思考せず、洗練させないのも考えものです。崇高さを目指して磨きをかけるのを怠ってはいけませんが、誰も寄りつけないほど高い所まで行ってしまうのも良くないのでしょう。やはりバランスが大事ということかと思います。