杉本純のブログ

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松本清張「西郷札」

結末のわからない小説

松本清張のデビュー作「西郷札」を久しぶりに読みました。

題名は「さいごうふだ」でなく「さいごうさつ」と読みます。知らない人が初見だと「さいごうふだ」と読んでしまいがちである(と私が勝手に思っている)ことは、小説の中で一つのエピソードになっています。

西郷札とは、西郷隆盛率いる薩軍西南戦争の折に製造した軍票のこと。私は前回読んだ時は債券だと勘違いしましたが、債券ではなくお金そのものです。主人公はこの西郷札の製造に携わった元薩軍兵士で、生き残って明治の世を生きていたものの、西郷札を使った一攫千金の話に逆らいがたく乗せられてしまう。一攫千金は失敗に終わりますが、本人が最終的にどんな末路を辿ったのかは、小説には書かれていません。

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語りの巧みさ

語り手は、主人公が西郷札について書き残した「覚書」に興味を持ち、それを元に主人公の伝記めいた書き物を著した新聞社社員です。その伝記めいた書き物が、すなわちこの小説です。ただし、冒頭には語り手が西郷札と覚書を入手する経緯が導入部として置かれています。

覚書を元に書いたものである以上、視点人物は主人公である元薩軍兵士なわけですが、この小説には主人公がまず知り得ない部分を描写している箇所があります。その箇所に関する情報を知る手段は語り手にはないため、その箇所は語り手の創作と言えるでしょう。そういう意味では、この小説は語りの構造にミスがあると見るべきですが、覚書の著者である主人公が、その箇所を絶対に知り得なかったかというと、実はその可能性は皆無ではありません。

この小説、すなわち語り手が著した伝記めいた書き物は、一見すると語り手など不要ではないかと思えます。しかし、覚書の末尾は破り捨てられており、それゆえに主人公の末路がわからなくなっているところなどは、覚書というアイテムを使って結末を読者の想像に委ねるやり方として巧みだと思います。語り手を取り除き、主人公の行状を普通に叙述したら結末は隠せず、何らかのやり方で隠すとしても、読者にはただアンフェアに見えるだけでしょう。もとより、主人公の末路はわかってしまったら面白くないとも言え、この語りの構造は実に巧みだなぁと感じます。

それにしても、歴史に実在したアイテムを使って一つの小説に仕立てる松本清張の手腕はすごいと思います。