杉本純のブログ

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創作雑記29 語り手と主人公

エッセイ、手記、小説

全国各地で行われている、ライター向けのあるセミナーで、文の主人公が自分に近いものがエッセイ、遠いものが小説だと説明されていたのを知りました。なるほどと思いつつ、では私小説はどうするのだろう、と思いました。この場合の主人公とは、いわば主語のようなものかと思います。主語が「私」なら、それは書き手である自分と近い(=エッセイ)、「山田太郎」などとするなら、それは書き手からは遠い(=小説)、ということです。

それで、では私小説はどうするのだろう、という疑問です。私小説は、作者が自らの体験を元にして書いた小説だから、文の主人公は自分に近い。それだとセミナーの内容と矛盾してしまいます。

まぁ、セミナーで言われた小説とは、恐らく架空の人物ないし歴史上の人物を主人公にした小説を指すのでしょう。セミナーで言われた「小説」に私小説は含まれていない、と見るべきかと思います。

一歩進めて、セミナーの図式に「私小説」を当てはめてみると、小説でありながら書き手と主人公の距離が近い、つまりエッセイに近い小説だということが言えそうです。

しかし…宮原明夫『増補新版 書く人はここで躓く!』(河出書房新社、2016年)にはこうあります。

 手記では、文中に出てくる「私」と「筆者」とはイコールです。
 それにひきかえ、小説の場合には、たとえ主人公が筆者をモデルにして書かれたものであっても、または「私」という一人称によって描かれていたとしても、「筆者」と「主人公の私」とは別物です。

とあります。私は以前、この箇所を読んで目から鱗の思いがしたもので、たとえ私小説を書くとしても、主人公は自分自身とは切り離して造るべきだと考えています。

セミナーの「エッセイ」と宮原の「手記」は、ほぼ同一ではないかと思います。つまり、エッセイや手記の「私」は「筆者」とイコール(近い)、一方で小説(私小説)の「主人公(私)」は「筆者」とは別物(遠い)、ということではないかと。