杉本純のブログ

本を読む。街を見る。調べて書く。

意識を低くしてみる

中庸が望ましい

このブログで半年ほど前、Ryota『まわりに気を使いすぎるあなたが自分のために生きられる本』(KADOKAWA、2021年)を取り上げ、同書の「意識低い系生活」について書きました。

この「意識低い系生活」とは、誰かの役に立たないといけない、社会に貢献しないといけない、など意識を高く持って生活していると、楽しめなかったり、他人を優先して自分を後回しにしてしまったりして、毎日が辛くなってしまうので、意識をもっと下げて生活することです。

私は元々、時間があれば本を読み、調べ物をし、創作の構想を練り、実作もする、といった生活の仕方をしていました。時間は有限なので有効に活用しなくてはならない、と汲々としていました。それは、言うなれば「意識高い系」だったかもしれません。ただ、二十代や三十代の頃はもっと尖っていて神経衰弱になるくらいでしたので、いくらかマシになってはいたのでしたが。

こと小説の創作においては、すでに涸れている井戸から水を汲み出そうとするかのようにアイデアを出そうと考えまくり、辛い思いをしていたような気がします。新人賞には何度も挑戦しましたが駄目で、精神的にはまことに荒涼たる様相を呈していたように思います。

人間の脳というのは不思議なもので、アイデアが完全に枯渇することはないと思います。しかし上記のように無理矢理に出そうとすると、出てこない。恐らく、アイデアが自然に湧き出てくる生活の仕方が、個々の性質に合った形で存在するのではないかと思います。そういう生活スタイルを意識的に引き締め、アイデアを搾り取ろうとするのが「意識高い系生活」の形ではないか。

意識が高いこと自体は悪いことではなく、むしろ良いことのように思えます。しかし、やはり物には限度というものがあるのでしょう。高くて苦しいなら、時には低くすることも大切だということ。結局、中庸がもっとも望ましいわけです。