杉本純のブログ

本を読む。街を見る。調べて書く。

「人間の日」と「主の日」

人間の悩みは変わらない

毎日、少しずつ読み進めている曽野綾子『心に迫るパウロの言葉』(新潮文庫、1989年)。ユダヤ教から回心してキリスト教の伝道に生きたパウロが残した言葉をめぐるエッセイですが、曽野の筆致は、あくまで冷静な作家のそれであり、だから読み応えがあると思います。

「『人間の日』と『主の日』」という章は、「さばきは神の事である」というサブタイトルがついています。この「事」は、「仕事」と言い換えてよさそうです。人間世界の悪に対し、人々は人間の法廷で裁く。それが「人間の日」で、それに対する「主の日」は、平たく言えば「最後の審判の日」であり、あらゆる行動と事績の最後の総決算で、これは神が担当する、ということでしょう。

私は神などいないと思っていて、「最後の審判」もないと思っていますが、曽野の文章が面白いのは、キリスト教パウロのそういう哲学を日常生活の心掛けに落とし込んでいるところです。

曽野は「さばきは神の事である」というパウロの言葉を引き、「すべての真実の決着は、神の手に委ねればいいのである」と述べます。

 時々私は、これを大変便利なことに思った。私にも人並みによく思われたいという気分は充分にあるが、私はこの数年、それをかなり整理したのである。いや整理というと体裁いいが、諦めて放棄することを学ぶようになったのである。つまり人間は、いい人だと思われようとすると努力がいる。冠婚葬祭にはいつもきちんと出席し、病気見舞いも怠らず、礼状はすぐに出し、客は鄭重にもてなし……というようにやっていると、私の身がもたない。私は、せめて小説だけ、少しちゃんと書こうと思っただけで、資料の扱いに疲れ果て、真っ先に眼が悪くなったくらいだから、能力以上の努力はとうてい続きそうにない。

まったくその通りかと。まあ、頭では分かっていますが、行動においてはなかなか徹底できていませんが。

ところで、最近の自己啓発本などではよく、他人から好かれる必要はない、などと言い、自分を消耗させる思考や習慣を捨てるよう勧めていますが、曽野がずっと前に言っていたんだ、と思いました。考えてみれば、「自分軸」という言葉は夏目漱石が「自己本位」と表現していた考えと同じだと思いますし、あるいは近年よく自己啓発書のテーマとターゲット読者になっている「HSP」も、本多信一さんの著作のテーマである「内向型人間」とほとんど変わりありません。

古今東西、人間はけっきょく同じようなことに悩み、苦しんでいるのかもなぁ、と思います。