杉本純のブログ

本を読む。街を見る。調べて書く。

「もう、あとはいつ死んでもいい」

凝りに凝った藤澤全集

本の雑誌」2022年6月号の特集は、西村賢太の追悼企画「結句、西村賢太」です。これは図書館で借りて済ませてはいけないと思い、ちょっと遅くなりましたが先日本屋で買いました。

まだじっくり全て読んだわけではありませんが、個人的には、これは文学とか小説に真剣に打ち込もうとする人には必読の一冊なのではないかと思います。

巻頭には「藤澤淸造全集」の内容見本が掲載され、凝りに凝ったつくりにまず驚嘆させられます。これまで私は色んな全集を見てきましたが、最近、いや昔の全集などでも、ここまで凝ったものはあまりなかったのではないかと思いました。

「その無念、引き受けた」

西村による「『藤澤淸造全集』編輯にあたって」は、西村の藤澤と全集編輯への個人的感情が多分に吐露されています。特に後半、西村が藤澤の生き方に深く共鳴し、全集編輯を決意して行動を始めたことを述べる辺り、

 どうで死ぬ身の一踊り。これで最後の一踊り。それでもダメとなれば、その時はそう深刻ぶるがものはない。脳をマヒさせたうえでこの人を追い、芝公園に行けばいいだけのことではないか、と考えたら急に心が軽くなった。
 そうと決まれば私たる者、もはや泣いてる場合ではない。能登の七尾にある藤澤淸造の墓前にぬかずき、呟かざるを得ない。「その無念、引き受けた」と。そうした感傷に顔をしかめる人があっても、知ったことではない。もはやこちとらは心に「藤澤淸造」の四文字を掲げ、ちょいと他人とは思われなかったのだ。

 この全集さえ完結出来たら、もう、あとはいつ死んでもいい。全力で編輯にあたらせていただく。

とあるのには、心を深く打つものがあります。やや投げやりな、自棄的な感じすらするものの、一方でそこには、西村がそれまでの人生で舐めてきた辛酸を思わせるものがあります。

結局、文学というのはこういうことなんだよ、と思えます。腹をくくり、それまで生きてきたものをぜんぶ曝け出すのが、文学なのじゃないかと。