杉本純のブログ

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宿命は気にしなくていい

宿命は単なる思い込み?

昨日は「物書きの宿命」と題し、自分は物書きなんだから書き続けるしかない、といった趣旨の記事を書きました。

しかしそれを読み返してみて、実績を出すには書く以外ないのはそうだと思いつつ、赤い靴を履いているかのように書き続ける宿命にある、といった書き方に違和感が残りました。

人間はなにも物書きにならなくてはならないわけではなく、私自身も望んでこの道に進んだわけで、この道が嫌ならとっとと諦めて転向すればいいわけです。だからなにも「書き続けなくては!…」と悲壮感を抱える必要などありません。

映画を学んでいた学生時代を振り返ると、私はそういう、ある種の悲壮感に満たされていたように思います。脚本家兼映画監督ワナビだった私は、自分はこれ以外に生きる道なんてない!…と思い込んでいた。映画の道への挑戦が成就するかどうかにアイデンティティ確立の成否がかかっていたのです。だからいつも悲壮感たっぷりで、いわゆる「イタい人」になっていました。

けれどもなんとか大人になり、あらゆることが相対化されてきて、人間なにも藝術家になんてならなくていい、ということが今ははっきりとわかっている。だから、私が自分の宿命だど考えていたことは、実は単なる思い込みに過ぎないのではないのかと思います。

意志や努力ではどうにもできない

一方で、私は以前、「使命」と題した記事を書きました。長沼睦雄『敏感すぎて生きづらい人の明日からラクになれる本』(永岡書店、2017年)や本多信一『内向型人間の仕事にはコツがある』(大和出版、1997年)に書かれていたことを引き合いに、自分には自分の意志や努力とは無関係に最適な仕事(使命)があるかも知れない、と。

そして私の場合、それは「書くこと」であるかも知れず、となるとやはり私は書き続ける宿命にあるわけでしょう。

とはいえ、悲壮感を抱える必要はない。書くことは私の人生そのものなのだから、思い切りやるもよし、嫌になって離れてみるもよし、ではないか。嫌になって離れ、そのままお別れできたなら、書くことは私の使命ではなかったということで、それでいい。どうしても書かずにはいられない、書きたい、と思ってまた書き始めたなら、私は書くことに向いている、つまり書く宿命を背負っているということでしょう。

一周まわって同じ結論に達したようですが、宿命がどうとか考えなくていい、赤い靴がどうこうとか考える必要はない、ということだと思います。