杉本純のブログ

本を読む。街を見る。調べて書く。

歴史とかみ合わない

野口冨士男「その日私は」(『野口冨士男自選小説全集・上巻(河出書房新社、1991年)所収)は、野口が自身の歴史との関わり方について書いた私小説です。昨日もこのブログに書きましたが、いい味出しています。この渋味が実にいいですね。

小説そのものは1941年の真珠湾攻撃の日に野口が家族と新宿の映画館(昭和館)に『スミス都へ行く』を観に行ったことから始まっていますが、主たる内容は野口自身の二・二六事件の時の体験です。

真珠湾攻撃の日も二・二六事件の日も、野口は歴史に深く刻まれるであろう出来事を体験しつつ、どこかずれている、あたかも自分はそれとは関係のない人であると思えるような成り行きになります。日本がアメリカと戦争を始めたのにアメリカ映画を観に行ってジーン・アーサーの声に聞き入ったり、街に兵隊がたくさんいると聞いて急いで会社に出ようとしたのに気が付いたら着流しの和服の上にトンビと足駄という恰好だったり…。

「私」のそういう人間性は、

 それにしても、なぜ私は歴史といつもかみ合わないのであろうか。

という小説の途中にある一文からも窺えます。

これが本作の主題だと思います。政治的に大きな事件が起きていながら、自分はそれにはあまり関係がないように思える感覚。二・二六事件の時などは新聞社に缶詰めになって心身を擦り減らしながら号外を出していたのに、それが誤報だったということを知って悔恨と疲労に打ちのめされる、その虚しさ、徒労感…。

私は野口冨士男についてぜんぜん詳しくないですが、この小説を読んで、この人は歴史というか、組織や他人ともほとんど嚙み合わない人ではないか、と思いました。ひょっとしたら発達障害だったのかも知れないな、とも私は思いました。

それにしても、この嚙み合わなさ、私はほんの少し覚えがある気がします。世間で大騒ぎしている事件や事故にまったく興味がわかなかったり、多くの人が取っている行動とは別のことをしたくなったりするんです。