杉本純のブログ

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縁なき衆生は度し難し

他人と議論をしていて、自分にとっては簡単な問題だと思うことが、相手にとってはやたら難しい問題になっていることが、たまにある。

そこで、これこれこういう風に考え、こう行動すればその問題は難なく解決できるでしょう、といった提案をする。それに対し相手は、なるほど…いや、でもこれこれこういう背景があってそうするのが難しいのだ、といった事情を語る。私はその背景事情を含めても、これこれこういう考え方で乗り越えられるじゃないか、と話す。相手はまたもや、そうなんだけれどもかくかくしかじかの理由があってだなぁ…などと言う。私は、いや、だからそれはこう考えれば…という、押し問答のような感じで問題がいっこうに解決に向かわないことがたまにあるのである。

決して主義主張が異なっているわけではなく、同じ問題を解決しようと手を組んでいるはずなのだが、押し問答めいた展開になってしまう。そんなことがたまにあって、けっきょく、立場が上の人の言うことに従う、という形になることが多い気がする。それで私は、それなら最初からそうすりゃいいじゃん、と。

どうやら、議論の前提、つまり論を展開する基礎の価値観が異なる者同士では議論はしにくいものらしい。だが私がしばしば感じるのは、相手はどうやら既成概念に縛られていたり、何らかの思い込みがあったりと、科学的に考えることができないでいるんじゃないか、ということだ。私にそういう既成概念や思い込みがない場合、上記のように、この人はどうしてこんなことで悩んでいるんだろう、これこれこういう風に考えれば簡単に解決できるじゃないか、と思うのである。

そんな時、私はよく「縁なき衆生は度し難し」と思う。この言葉は、忠告に耳を貸さない人は救いようがない、という意味だが、この場合はややニュアンスが違っていて、物事の道理を飲み込めていない人はそれに沿って考えることもできず、いくら説いて聞かせても理解できない、といった感じである。恐らく、相手はこの先もずっと思い込みを捨てられず、同じ問題でつまずき続けるんだろうなと。

私も既成概念や思い込みはあるだろうから、時として相手の方が私を「縁なき衆生」と思うこともあるだろう。ただ、私は自分から議論をしかけて、俺と相手はどうやら前提が違うぞと感じたら、その議論は早々に切り上げる。