杉本純のブログ

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議論好き

議論というのは、ある議題について複数の人間が意見を交わし、何らかの決着をつけるためにするものと思う。議論を交わすうちに相手の考えがだんだん明確になっていき、お互いの意見が合致していい感じになることもあれば、相手の考えが自分とは相容れないものが分かってサヨナラになることもあるだろう。べつに「議論」などと言わずとも、そういうやり取りは普段の対話の中で行われているものである。しばらく接してみる中で色んな発言や行動を目の当たりにして、ああ俺はこの人好きだな、とか、ダメだこの人合わないわ、とかになる。

しかし、世の中にはいわゆる「議論好き」の人がいて、このタイプの人は私の知る限り、何らかの決着をつけて物事を進捗させるというより、自分の考えを語る機会として議論を好んでいる。自分の考えを言いたい思いが強く、物事を進捗させることをあまり考えていない。「進む」よりは「深まる」方を好んでいるのである。これは好き同士でやっている分には問題ないが、物事を進捗させたいと思っている人にとっては苦痛でしかない。

私はかつて、上記のような議論好きだった。話に決着をつける必要など感じておらず、問題と相手の意見をあらゆる角度から見て、より深く理解することが好きだったので、話は延々と続き、いつまでも終わらなかった。最近は問題を次のステップに進ませることを重視するようになり、様々な周辺問題を考慮しつつ、完全な解決ができなくともとにかく前に進もうとする。すると、前まで好きだった議論好き人間との会話が、不毛で無価値なものとしか思えなくなってきた。こいつはなんでこんなどうでもいい問題についてああでもないこうでもないと言い続けているんだろう、と。

もっとも、深い議論をしようという前提があって、それに同意していれば、苦痛に感じることはない。物事を深く考えることは大事だと思うし、それによってさらに高次元の問題を発見することもあれば、これが最良と思われていた解決策が実は過ちではないかと思うこともあるからである。

小説を読んでいて、描写が長く続くと、そんなのどうでもいいから早く話を前に進めろ、と言いたくなることがある。しかし描写によって小説の味わいも深くなることもある。議論と描写は似たようなものである気がする。