杉本純のブログ

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議論好きサラリーマン

司馬遼太郎『ビジネスエリートの新論語』(文春新書、2016年)の「議論好きは悪徳」は、「人生はいつまでも学校の討論会ではない。」というカーネギーの言葉を引き、タイトルの通りサラリーマン稼業にとって議論好きであることは悪徳だと述べている。

 まだしも話柄が、火星ニ生物ガ棲息スルヤ、恋愛ハ結婚ヲ前提トスベキヤイナヤ、などと科学評論や人生評論をやってるあいだは可愛い。が、次第に議論に快感をおぼえて同僚や上役を俎上にのぼせ、大いに人物評論家としての才腕を発揮したりするようになると事が面倒になる。

私は議論が科学的に進められる限りは好きな人間だが、上に引いた司馬の考えは、まことにそうだと思う。

私の経験では、多くのサラリーマンは社内では大人しくしていて、飲み会などになると意気盛んに経営者や同僚の人物評をやり始める。その点では議論好きと言えると思うのだが、かといって「論争好き」ではない。自分勝手な評論を展開するのは好きで、部下や同僚がその論に賛同している限りは気持ちいい。しかし自分の論に反論が出て論争に発展すると、やはり社内と同じような序列意識やヒエラルキーが顔を出すのだ。例えばベテラン社員が何か言い出したのに対し、若い社員が巧みな論の展開を見せて先輩を論破してしまうと、その若手は嫌われるに決まっている。

つまり、酒場の議論や人物評は、やはりしょせんは茶飲み話、ならぬ酒飲み話なのであって、科学的な論として受け止めてはならないだろう。