杉本純のブログ

本を読む。街を見る。調べて書く。

本と読者

前野久美子編著『ブックカフェのある街』(仙台文庫、2011年)の佐伯一麦による読書会「夜の文学散歩」の記事には、古井由吉「杳子」にまつわる佐伯の思い出が語られている箇所がある。

千葉の自宅で公文式の学習塾をやっている夫婦を取材しに行きました。取材が終わって文学の話になったら、ご夫婦で古井由吉はいいね、『杳子』はよくわかると話している。僕は十八、九歳だったからまだピンときてない時期だったので、そうですかね、と言っていたんだけど、その姿を見て、こういう夫婦というか人達が、古井文学を読むんだなと思ったことがありました。
 だから本を読み、その本の読者の顔を見て、はじめて本のことが分かるということがあるのね。

その通りだと思う。もちろん「読者」といっても様々だから、本に対する自分の印象と、読者から受ける印象を重ねることで理解を深める、ということかと思う。

愛読者なのか、かつて読んだことがあるだけなのかによって、「読者」が意味するところは変わってくるだろう。かつて、電車の中で茶髪の派手な格好の女性が『戦争と平和』を読んでいるのを見たことがある。外見からして、とても文学に親しんでいる人には見えなかった。もしかしたら大学の文学か何かの授業で、課題として読まなくてはならないのかな、などと思った(むろん外見からの主観でしかない)。しかし、それはそれで『戦争と平和』のことを伝えているわけだ。