杉本純のブログ

本を読む。街を見る。調べて書く。

黒井千次「聖産業週間」

黒井千次の短篇「聖産業週間」(『時間』(講談社文芸文庫、1990年)所収)を読んだ。読んだのだが、なんとも変わった話だった。あまりやる気がなかったサラリーマンがある日いきなり猛然と働き始める、という話なのだが、その主人公と同じサラリーマンである私からすると、こういう状況でどうしてこうなる?と首を傾げざるを得ない箇所の連続だった。

この小説は黒井が36歳の頃に書いた作品で、黒井自身は富士重工業に勤めたことがあるから、作品にはサラリーマンとしての経験がいくらか込められているのだろうと思う。けれども、どうもリアリティに欠ける。黒井と私では時代が違いすぎ、同じサラリーマンとはいえ感覚に相当のズレがあるとは思うのだが、だらけたサラリーマンがいきなり滅茶苦茶に働き出すことの動機が弱すぎると感じた。主人公は、自分の息子が友人と遊んでいて惨めな目に遭わされたのに、息子自身の怒りがすぐに冷めてしまったことに憤りを覚える。それが契機となり、いわば「生」の実感のようなものを労働によって味わいたいという欲求に駆られ、一週間かけてそれが得られるかどうかの賭けとして仕事に打ち込むようになるが、そんな奴いるのかなと思った。憤りを晴らす対象が違う気がするし、どうして一週間なのかと思うし、そもそも「生」の実感を得られるかどうかを「賭ける」のも変な話である。

滅茶苦茶に働く主人公に対し、周囲の人は(語り手も含めて)腫れ物に触るようにし始めるのだが、そんなに大ごとでもなかろうと思う。過労で倒れたとか、故障したとか入院したとか鬱になったとかいうわけでもなし、ただ一生懸命働いているだけなのになぜ?と思わざるを得ない。

けっきょく主人公の賭けは失敗に終わる。最後は、語り手がそんな主人公への反論めいたことを本人に伝えて終わるのだが、小説の流れからして、現代のデスクワークに「生」の実感はない、という結論なのだと私は思った。理念先行型、問題提起型の小説と言えるが、それゆえか、かえって「実感」がない…。

Wikipedia黒井千次を見ると、1968年に「聖産業週間」で芥川賞候補となり…とあるが、候補にはなってない。