杉本純のブログ

本を読む。街を見る。調べて書く。

まずは教養

磯田道史先生の『歴史とは靴である』(講談社、2020年)が面白い。これは同社の「17歳の特別教室」シリーズの一冊で、磯田先生が高校を訪ねて高校生に講義したのを再構成したもの。他には高橋源一郎佐藤優瀬戸内寂聴といった著名人もやっている。

いくつか興味深い箇所があった。まず「なぜ慶應に入りなおしたのか」という見出しがあるところ。磯田先生は慶應大出身だが、その前に京都府立大学に行っていたそうだ。当時先生には彼女がおらず(最初に彼女ができたのは36歳だとのこと)、江戸時代の人は何歳で最初の結婚をしていたのか、ということが気になったらしい。江戸時代の初婚年齢を明らかにしたのは速水融(あきら)という人で、この人が慶應の先生だった。また、府立大学の図書館にある歴史書は全て読んでしまったが、別の、例えば京都大学の本を読みたくても紹介状がないと貸して貰えないと知り、まずいと思って、速水先生がいる慶應に行こうと思い立ったという。速水融は幸田露伴渋沢栄一伝を批判した人で、磯田先生はその孫弟子にあたる、と慶應出身の知人が言っていた。

磯田先生は、歴史が好きか、とか歴史上の好きな人物は誰か、とか人からよく聞かれるらしいが、先生自身それには違和感があり、歴史は嗜好品ではなく実用品だと言う。過去の事実を知ることで未来のことがあるていど分かるようになる、つまり、世間を歩く際に足を保護することができるようになる、すなわち靴のようなものだと。なるほど。

「時代小説が描くもの」という見出しがあるところでは歴史研究、史伝文学、歴史小説、時代小説の区別が説明されていて面白い。歴史研究から時代小説に移行するにしたがい、史実の正確さが薄れてエンタメ性が高くなる。森鷗外の『澀江抽齋』は史伝文学で、鷗外が医者だったこともあり史実に忠実だが、「ぼくのような歴史学者が読んでも退屈です。史実を細部まで書きすぎなのです」と先生は言っている。

そりゃそうだ、と私は思った。私も岩波文庫の『澀江抽齋』は一度読んだきりで、もう一回読もうとは思わない。かつて、自分は『澀江抽齋』を何度も読んでいます、と自慢げに語った人がいたが、鷗外や武鑑、抽齋などの研究者なら分かるがあんなの何度も読む代物じゃないと思う。

最後の「教養とはムダの別名である」では、内田百閒のエピソードや日本がアメリカに戦争で負けたことを引き合いに出し、無駄を思えるような知識や学問を積み重ねることがいかに大切かを語っている。この箇所を読んで、とにかく小説!作品!書き物!とあくせくしているばかりのこじらせワナビ生活を送っている私は、ちょっと楽になった次第。

先生の言う通り、「まずは教養」である。