杉本純のブログ

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複雑怪奇の人間世界

立花隆は大学時代に文学サークルに入り、小説や詩をたくさん書いていたらしい。小説はかなり読み、外国文学の代表作は古典から現代までほとんど全部読んでいたようだ。しかし日本の文学は大江健三郎どまりで、村上春樹になると読んでいなかったという。小説はくだらない、と思うようになったからだそうだ。その後、週刊誌の世界に入り、どろどろした現実をあらゆる角度から見ることになり、小説の世界が薄っぺらいものとしか見えなくなったが、例外はあり、ドストエフスキーなど19世紀の作家には現実以上の多重構造世界を感じたという。

私はこのたびドストエフスキーならぬバルザックの『従妹ベット』(水野亮訳、岩波文庫、1950年)を読んでいて、そういう多重構造世界というか、主たるストーリーの背後にある複雑怪奇の人間世界を目の当たりにして驚いている。

この作品は、冒頭の部分に地域や登場人物の邸宅や服装などに関する分厚い稠密な描写がなく、バルザック作にしては珍しい。しかし、その冒頭の十数ページだけでも、複雑でどろどろした人間関係の相関図が描かれている。もっとも、それはバルザックの作品であれば珍しいことではないが…。主たるストーリーを追うだけならばそういう相関図をさらっと読み飛ばしてしまっても構わないが、私はこの作品をちゃんと読みたいと思っているし、人物が出てくるたびにメモを取って相関図を理解しようとした。

さてその冒頭というのは、セレスタン・クルヴェルという国民軍の大尉で元は香料商人の男が、ユロ・デルヴィーという男爵の妻であるアドリーヌに言い寄るところである。場面は主に二人の会話で進行するが、それだけで二人の関係の背後にある複雑な人間相関図が浮かび上がってくる。

クルヴェルは娘のセレスティーヌをユロ男爵とアドリーヌの息子であるヴィクトランに結婚させた。それで、アドリーヌは娘のオルタンスを控訴院判事のルバと結婚させたいので、クルヴェル大尉にその力添えを頼もうとしていた。しかしクルヴェル大尉は、オルタンスに20万フランの持参金が与えられるのかを訊いてきた者に、それは疑わしいようだと、正直に言ってしまった。それでその縁談が壊れてしまったようだ。ちなみにクルヴェルは「やもめ」で、それゆえに放埒をしてしまったらしく、それさえなければセレスティーヌをポピノという子爵の嫁にやることができたのにと嘆いている。放埒とは女遊びのことかと思うが、ちゃんと書かれていない。そのポピノというのは元薬屋で、セザール・ビロトーの義理の息子だったようだ。クルヴェルはビロトーの手代頭を務めていたといい、ビロトーは香水店をやっていたという。バルザックには『セザール・ビロトー』という小説がある。

どうしてクルヴェルがオルタンスに持参金が与えられるのが疑わしいと言ったかというと、ヴィクトランが借金がある身だった、と言ったのでユロ家の財政を疑っていたのだろう。クルヴェルはアドリーヌに恋していて、アドリーヌがその思いに応じてくれたら、オルタンスの娘の持参金は自分が出してやった、とまで言っている。どろどろである。

クルヴェルは、自分にはアドリーヌに言い寄る権利がある、と妙なことを言う。なぜかというと、クルヴェルは過去に自分の妾のジョゼファをユロ男爵に奪い取られたからだ。ユロはジェニー・カディーヌという女を妾にしていたが、この女が参事院議員や藝術家の方へ行ってしまい、クルヴェルからジョゼファを横取りした。もうむちゃくちゃである。

…ざっとこんな経緯が冒頭の「二」に書かれている。私がなぞったのは概略で、本文にはクルヴェルがユロ男爵を憎んでいることなど、もっと細かく書かれている。

読んでいて私は、現実世界の人間関係というのは、普通にこれくらい複雑だろうと思った。そして、小説の世界に書かれるのはその中の主たる関係性とその変化だけで、そういうところが、立花隆が薄っぺらいと感じた理由ではないかと。

基本的に、主たる人間関係の変化を描けば小説としてはちゃんとできているはず。しかし、その背後にある複雑な人間関係相関図もきちんと描かれると、読み応えが高まるのも確かだと思う。