杉本純のブログ

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川端康成と石塚友二「松風」

ある人物の詳細年譜を作成しようと思い、勉強のために小谷野敦・深澤晴美編『川端康成詳細年譜』(勉誠出版、2016年)を読んだ。

文字通り川端康成の詳細な年譜なのだが、川端自身だけでなく、鎌倉時代北条泰時九男の駿河五郎道時三男である川端舎人助道政という、川端家初代となる人物から始まっている。

ぱらぱらとめくると面白い箇所があった。1942(昭和17)年。

七月二七日、午後二時よりレインボー・グリルで芥川賞銓衡。予選委員。石塚友二「松風」を推す(受賞せず)。その後軽井沢へ。

八月一日、芥川賞決定、該当作なし。軽井沢から芙美子宛、芥川賞からこちらへ。「松風」は受賞せず。

八月三日、林芙美子より軽井沢宛、東京はうだるような暑さ、石塚は不運。

八月六日、芙美子宛、藤屋に宿確保、ご主人を先に待つ。「松風」は反対が絶対多数。(⑮)

などとある。「⑮」とは、『川端全集』補巻二(1984年)の「書簡来簡抄」が典拠になっているということだ。

私は石塚「松風」が気に入っているので、上記箇所は興味深かった。ちなみに「レインボー・グリル」という店は、『芥川賞直木賞150回全記録』(文藝春秋、2014年)を参照すると内幸町にあったようで、さらにWikipediaを参照すると、旧・日比谷ダイビルの地下一階に入居し、1944年3月に廃業するが、同ビルに入居していた文藝春秋関係者に親しまれていたことが『ダイビル七十五年史』に書いてあることが分かる。1944年廃業ということは、川端が足を運んだ約二年後に終わったことになる。

「松風」は「反対が絶対多数」とあるが、「芥川賞のすべて・のようなもの」を見ると、川端以外にも小島政二郎横光利一が推していたことが分かる。なかんづく横光は「私も年ごろで結婚に迷うものには、ぜひこの作を一読するように奨めている」とまで言っている。ただ瀧井孝作室生犀星宇野浩二久米正雄からの評価が悪く、特に宇野は評価が厳しかったようだ。