杉本純のブログ

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心理描写雑感

黒井千次の「時間」(『時間』(講談社文芸文庫、1990年)所収)を読んでいるのだが、主人公はそんなに特徴ある人ではなく、その悩みというのもさほど大したことないはずなのに、心理的な葛藤をこれほどまでに語彙を駆使して表現しようとするのもすごいなぁと思っている。ひょっとしたら「内向の世代」の小説はだいたいこんなのなのかしら、とも思っているところ。

私自身の創作体験から言うと、特徴のない凡人による平々凡々な話は、その心理描写をどんなに深く精細にやったとしても、面白くはならない。かつて取り組んだ私小説では、主人公の心理の奥のそのまた奥の方まで解剖し、私なりに言葉を尽くして描写したが、けっきょく空回りしただけでぜんぜん劇的な感じを出せなかった。大したことない人の大したことない話だったからだ。

苦悩が人物を魅力的にするのではなく、人物の魅力が苦悩を魅力的にする、と宮原昭夫は『増補新板 書く人はここで躓く!』(河出書房新社、2016年)で言っているのだが、その通りだと私は思っている。もちろん石塚友二「松風」のように、平凡な人の平凡な体験でも読み応えのある作品になることはあるので一概には言えないが。

ただし「松風」の描写は簡潔で端的で、決して装飾的ではなかった。そのあっさりしたところが良かったとも思う。思うに、内面の描写は登場人物を美化するために多用すると、だいたい失敗するのだろう。レトリックは、美しいものを讃える時に使うと効果的かも知れず、それは、時代が古いがバルザックの小説を読むとよく感じる。大したことがないものをレトリックで飾り立てるのは無駄なのだと思う。