杉本純のブログ

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ワナビをこじらせて

雨宮まみの『女子をこじらせて』(ポット出版、2011年)の巻末に漫画家・久保ミツロウとの対談が収録されていて、「生まれや育ちのせいじゃなく、こじらせたのは結局自分」という見出しの部分を読んで、泣きそうになった。

雨宮 (前略)自分のまわりでこじらせてる人ってたいてい厳しい家で育っていて、自分を振り返っても、がんばっても「もっとがんばらなきゃダメだ」としか言われないことで自己否定感が強くなったのかな~と思わないこともない。けど、もう三十代も半ばになって今さら「親の教育が~」とか、親のせいにするのもろくでもないと思うの。
久保 こじらせてる人って、みんな親のせいにはしてないと思う。厳しい親だったかもしれないけど、育児放棄されたわけでも暴力をふるわれたわけでもないじゃん。だからやっぱり親のせいじゃなくて「自分は自分でダメになっちゃったんだ!」と思うよ!
雨宮 自分は自分でダメになった……(笑)。キツいわ~。

その少し前には、高校時代に「普通に青春してきた」、つまり普通に恋愛してきた人は私のように自分のことでいっぱいいっぱいになったりせず、今「世界から貧困をなくそう」といった活動に従事している、と久保が言い、雨宮も「いいトシしてまだ自分のことでいっぱいいっぱい」と同意している。

「いいトシしてまだ自分のことでいっぱいいっぱい」という部分に深く感じるところがある。そして泣きそうになったのは、親のせいじゃない、という部分だ。まったくその通りで、親のみならず、誰かを憎んでも恨んでもこじれたものはほどけはしないのだ。

ワナビをこじらせてしまった人も同じことで、自分がなりたいと思っていた「何者か」になれずこじらせてしまったのは、世の中が悪いわけでも新人賞の審査員が悪いわけでもなく、結局は自分で自分をこじらせてしまったのだ。