杉本純のブログ

本を読む。街を見る。調べて書く。

やっぱり病気なのか…

相対性理論のストーブを触る例えじゃないが、時間の感じ方が変わることってあると思う。

今までで最も時間の流れがゆっくりだと感じたのは、日本映画学校の一年生の時だ。あの時は映画を我が物にしてやろうと異常なほど躍起になっていて、言うなればかなり高い意識で毎日を過ごしていた。最初の三か月間ほどで、一つのドキュメンタリー作品をチームで作るのだが、その制作期間にはよく徹夜していた。一日がものすごく濃密に感じられ、三か月しか経っていないのに半年も一年も過ぎたような気がしたものだ。

それは相対性理論の例えで考えると、ストーブを触っている時のように時間がゆっくりに感じられる、つまり苦痛に耐えている状態だったということになる。これは、好きな人といると一時間が一分に感じられるという、快楽の時間とは逆の現象なので、良くないことと考えていいのではないだろうか。

しかし当時の私は、実際は数日前のことがずいぶん以前のことに感じられる毎日が、一瞬を真剣に生きる濃密な日々のように感じられて、好きだった。自分は日々、猛修行をして成長しているんだ、などと思っていたように記憶している。

相対性理論の例えで言えば、やはりそれは誤解で、一年や二年があっという間に過ぎる方がはるかに濃密で充実していると言える。けれども私は、修行の三昧境に遊び、時間が遅く流れることを愛し、一日が過ぎるのをひたすら惜しんでいたように思う。

苦痛を肯定する精神論とか忍耐とか、勉強ばかりして何も生み出さないインプット一辺倒の習慣は良くないとようやく気づき、それを変えていきたいと思っているが、なかなか昔からの癖が抜けきらず、私は最近でも日々努力をして時間がゆっくり過ぎるのを楽しんでいる。時間が早く過ぎることに名残惜しさを感じるのだ。

このブログの過去記事を何気なく見ていたら、ずいぶん前に書いたと思っていた記事が、つい数週間前の記事だったことに驚いた。驚くと同時に、ちょっと嬉しさがこみあげてくるのを禁じ得なかった。毎日あれこれ考え、遅くまで起きて記事や小説を書くのを良いことと思っている。そして、早く床に就くことなどがあると、自分を責める自分がいる。

だが滑稽なことに、最大の望みである物書きになる道はさほど進んでおらず、ずるずると時間ばかりが過ぎているのだ。

今日が終わるのを名残惜しく思うよりも、明日が来るのが楽しみになるように過ごすのが良い。しかし今日残された時間を努力しないでは気が済まない。やっぱり病気なのかなぁ。