杉本純のブログ

本を読む。街を見る。調べて書く。

実験精神

未完の傑作より不出来な完成作

小説を書いています。

書いているといっても、習作というか、こういう書き方をしたらどんな作品になるだろう、という実験的な意図で取り組んでいます。

私はこれまで複数の小説を書き、新人賞に応募し、あるいは自費出版をしたりネットで発信したりしてきました。それは、現在も続けています。

悩ましいのは、じっくりと腰を据えて取り組む時間を取れないことです。人間、歳をとると世間からのいろんな要求に応えなくてはならないようになり、小説という、一種の「私語」を書いている時間は、なかなか取れなくなってしまうのです。

それゆえに、よぅし新人賞に応募するぞ、となると、つい気合いが入りまくってしまう。つまり、何年かに一度の傑作でなくてはらない、という考えに自然となってしまうのですね。

ところが、それが良くない。傑作を書こうとすると、とてつもなくハードルが高くなります。小説世界の設計もストーリーも人物造形も、これ以上のものは考えられない、というくらい徹底的に吟味し、十全に練り上げないと気が済まなくなってしまうのです。

そうなると、言うまでもなく時間がいくらあっても足りません。現に私は、自由な時間の大半を創作に捧げてきましたが、設定の作り込みだけで膨大な時間を要してしまっています。それはそれで、悪いことではないのですが、では一体いつになったら一行目を書き出すのか、と自分で思えてくるくらい、作り込みが際限なくどこまでも広がっていくのです。具体的にいうと、主要人物のみならず脇役の一人一人の生い立ちや価値観など、また舞台となる地域の歴史や逸話なども考え始めてしまう、という具合です。

面白い小説とは、背景まできちんと作り込んだものであるということは、相対的に正しいと思います。しかし、それを目指すゆえにいつまでも出来上がらないのは本末顛倒ではないか。未完の傑作よりも、不出来であっても完成した作品を積み重ねる方が大切であるのは、少なくとも今の私にとって事実です。習作に取り組むような、一種の実験精神を大事にして、とにかくどんどん書いていきます。