杉本純のブログ

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「お前なんてぜんぜんダメ」

年上の人と話していてしばしば感じるのは、相手が私に対し「お前なんてまだまだだよ」と、言わないけれど思っているんじゃないかということだ。

べつにこちらは教えてくれとも助言してくれとも言っていないのに、「お前〇〇する方がいいよ」とか「一度〇〇してみたら?」と、見下した感じで言われることが少なくない。本心からの助言ならありがたいのだが、どうも私を見下してやりたい雰囲気を感じる。「お前なんてまだまだなんだよ」とでも言わんばかりなのだ。最近ではだいぶ減ったが、まだそういう空気を出す人はいるし、かつては実際に「お前なんてぜんぜんダメ」などとよく言われた。

そういうことがあると、私はしばしば卑下してしまい、しょんぼりしてしまっていた。自信を喪失して、これだけやってもダメなんだからもう何をやってもダメだ、と絶望感に浸されてしまっていた。

もっとも最近は、そもそも私の方に年上の人=マウンティングをかけてくる人、という私の思い込みや被害妄想があるのかも知れない、あるいは、私の方が年上を馬鹿にした態度を取ってしまい相手が私を生意気だと思ったから見下してきたのかも知れない、などと幅広く考えられるようになってきた。

いずれにせよ、自信を喪失するまで落ち込む必要はない。人間、傲慢になってはならないが、必要以上に卑下するのは精神衛生上よくない。

私は最近、年上のその手の発言を理性で処理できるようになってきて、落ち込まなくて済むようになってきた。私は私なりにこれまでの学業や仕事を通して、年上の人も同年の人も経験していないことをかなりやってきた。

例えば私より映画や小説に詳しい人はいるが、そういう人で私よりインタビュー経験がある人は少ない。逆に私よりもインタビュー経験が多くて巧い人はいるが、そういう人の中で私より映画や文学について詳しい人は少ない。あるいは、映画や文学に詳しくて、なおかつインタビュー経験が豊富な人もいるけれど、では私より板橋や団地に詳しいかというと、もうそんな人はほぼゼロに近い。つまり、私は私なりにこれまで経験を積んできたのだから、決して相手に全面的に劣っているわけではないのだ。

こういう風に、相手が持っていないものを自分は持っていると考えるだけで、自分を必要以上に卑下せずに済む。ただし、それで鼻高にもなるのは馬鹿。私が相手より全面的に勝っているわけではないのは、上記の例を逆に考えてみればわかる。