杉本純のブログ

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ライターの恥

私がライターとして行う取材の中には、普段は関わりの薄い分野の、なおかつ高度に専門的な取り組みについて伺うことが、しばしばある。

しかも単なるインタビューでなく、大人数を集めての座談会を仕切ることなどがあり、そういう仕事が回ってくるのは、正直あまり嬉しくはない。取材する前から不安だし、本番では大変な思いをするからだ。

けれども、最近はそういう取材でも進んで引き受け、分からないのを逆に楽しんでやろうという精神状態になってきた。分からないんだから、恥ずかしがらず何でも聞いてやろうやないか、といった感じである(もちろん必要な準備はきちんとしておくべき)。

こないだ行った取材では、ある座談会を仕切らせていただいたのだが(座談会というよりは集団インタビュー)、集まった方が全員エンジニアだった。しかも私が苦手とする分野の話題で、その上わりと細かく突っ込んだ取材をしなくてはならなかった。

そういう取材をすると、私が図らずも頓珍漢な質問をしてしまい、座談会場が笑いに包まれることが珍しくない。座談会に限らず、対談で話題を振った時、あるいは単独のインタビューなどでも、「このライターはぜんぜん知らないな」「なに聞いてんだ、この馬鹿ライターは?」といった見下しの目線を浴びることが少なくない。

実際こないだの取材でも、私はいくつかの低レベルな質問をして会場を笑いでいっぱいにしたのだった。

以前の私は、ライター=頭のいい人、というイメージを相手に持ってもらおうという意思が強く、分からないことでも分かったようなフリをしたり、この質問をしたら笑われそうだなと思ったことについては質問しなかったりした。笑われて恥ずかしい思いをしたくないからである。

しかしライターにとって本当の恥とは、笑われることではなく、分からないことがあっても恥ずかしいという理由でそのままにしてしまうことである。「聞くは一時の恥聞かぬは一生の恥」。ライターだって人間なのだから、知らないことがあって当然。物事をたくさん知っているのは重要だが、それよりも、分からないことを分かろうとする探求心の方がライターとしては重要な資質だと思う。

あるライターは、取材をする自分の近くにいた人が、自分が質問するのを聞いて(恐らく低レベルな質問をしたのだろう)失笑したのがトラウマになり、取材への苦手意識が高まって、ついにライターを辞めてしまった。これは実にもったいないことで、笑われたって恥ずかしがる必要なんてないのである。笑いたい奴は勝手に笑いやがれ、俺はもっと知りたい、とでも言うくらいの豪胆さと好奇心こそ重要である。

話をこないだの座談会に戻すと、私はその場で多くの笑いを買ったが、ある種の開き直りの精神を発揮して取材を続け、笑われようが呆れられようがお構いなしで分からないことをどんどん聞いていった。逆に、「どうしてそうなのか知りたい」「もっと聞かせてください」といった意思を前面に出していった。

するとなんと、座談会に参加したメンバーは次第に私を笑わなくなり、逆に自分の述べたいことを素人にも分かるように丁寧に説明してくれたのだ。恐らく、私が素人ながら理解しようと必死であったのを感じてくれたのだろう。

だから、ライターだからといってインテリづらする必要はないし、むしろそういう態度は取材する上でマイナスである。テーマや題材が自分の手に負えないようなハードルの高いもであっても臆することなく、時には開き直って、相手の話に真摯に耳を傾ければいい。相手がまともな人であれば、分かるようにきちんと話してくれるはずだ。

もちろん、繰り返し言うが、開き直ればいいからと言って、事前の情報収集を怠ったり無知なままでいていいわけではない。