杉本純のブログ

本を読む。街を見る。調べて書く。

最近、朧げながら確信を持ったのは、「人間は自分の器に収まらない仕事はできない」ということ。

それは、或るライターが書いたインタビュー記事を読んで思った。記事は対象者の半生や仕事観を述べたものだったが、対象者が何を志向し、環境にどのように反応して生きてきたのかが捉えきれておらず、語られたことをただ並べただけだった。その対象者は、紆余曲折がありながらも自分の人生をかなり意志的に生きてきたはずなのに、その心情を受け止められているとは言い難い文面だった。

これはつまり、対象者が書き手の器に収まらない人だったということだろう。このことは、対象者と書き手の年齢とか立場とかの差に起因するというよりも、生き方や物の考え方などの違いに起因するのだろうと思った。だから、器の大小=優劣の問題というより、人格や価値観の違いの問題というべきではないだろうか。

ちなみに私は明治生まれのある藝術家について書き物をしようと、その人のことを色々と取材してみたが、戦時下の食うや食わずの状態や、家父長たる責務の自覚などが容易に想像できず、その人のことをなかなか把捉できないまま書き物は進んでいない。恐らく、その人と私の器の質が違うのであり、対象者を私の器に収めるには様々なベースの知識を入れなくてはならないだろう。つまり、勉強を重ねなくてはならない。

また私は最近、自分が十年以上前に書いたシナリオを再読したが、やたら幼稚で陳腐で通俗的な作品で啞然とした。どの登場人物もテレビドラマにでも出てきそうなステレオタイプ。当時の私の器には、描かれるべき人物像(年齢性別国籍さまざま)が収まらなかったのだと思う。

逆に、人生経験の豊富な年長者が、自分よりずっと年齢が低い人の気持ちを捉え得るかというと、そうとは限らない。

対象を自分の器に収めるには、やはり相手のことを勉強しなくては。だから、器に収まる・収まらないは要するに大小=優劣の問題だと言われれば、まあそうかも知れない。