杉本純のブログ

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「なぜ書くか」?

小説を書いている人に対し、その作品をなぜ書くか、ということを自分に問え、という人がいる。

小説講座の講師などにそういう人がいるのだが、どうも私はそういう問いを自分にするのが苦手で、どうして書くかって、書きたいから書くのに決まっているし、では「なぜ?」の果てにまっとうな理由が浮かんでくれば書けるのかというとそうでもないし、浮かんできてもべつにありがたくもないし、また作品が面白いかどうかは動機とは関係ないと思うからだ。

 ものを書くときの動機は人さまざまで、それは焦燥でもいいし、興奮でも希望でもいい。あるいは、心のうちにあるもののすべてを表白することはできないという絶望的な思いであってもいい。拳を固め、目を細め、誰かをこてんぱんにやっつけるためでもいい。結婚したいからでもいいし、世界を変えたいからでもいい。動機は問わない。だが、いい加減な気持ちで書くことだけは許されない。繰り返す。いい加減な気持ちで原稿用紙に向かってはならない。

スティーヴン・キング『書くことについて』(小学館文庫、2013年)にある文章である。私は上記の意味のことをまだ自分の言葉で言うことができないが、小説を書く動機、小説に臨む姿勢についてこれほど正鵠を射ている言葉はないと思っている。

思うに、自分がどうしてその作品を書こうとしているか、などと自分に問うてしまうと、自分は何らかの使命を負って書いているのだという、美化ないしは自己正当化の陥穽に落ちてしまう。これは小説を書く上では不健康なことだろう。小説は世俗的な営為であるし、小説の書く人はたいてい、金がほしい、名誉がほしいなどと考えている俗臭ふんぷんたる奴だと思うし、それでぜんぜん構わないと思う。