杉本純のブログ

本を読む。街を見る。調べて書く。

依存からの脱却

このブログは、私がツイッターを始めたほぼ一年後に開設された。その間に、私の交友関係はいろいろと変転していて、とても感慨深い。

交友関係の変転とは、それまでけっこう親しくしていた人たちと袂を分かったことだ。しかしこの「袂を分かつ」は、表面的には、ちょっとした諍いやすれ違いが元で相手に嫌気が差し、疎遠になっていったということだが、私なりに深く考えると、私はそれまでその相手に心理的に依存していたのだが少しずつ脱却していき、ついに平然と袂を分かつことができたということだと思っている。

ネット発信が増加する流れと軌を一にするようにして、他人への依存が減少していった。この経緯はとても興味深いもので、描きようによっては小説になりそうな気もする。

思うに、多くの人は自分の考えや気持ちを外界に発信したいと、本能的に欲しているのではないか。SNSがこんなに普及しているのはその証拠だと思う。

私はかつて文学同人に参加し、社員が十人もいない零細企業で働いていたこともある。その小さな集団の人間関係の中では依存関係が発生しており、私は、その依存相手に認められ、喜ばれようと躍起になっていた。プライベートの知人・友人にしてもそう。私はどうやら人に依存しやすい人間であるらしく、交友関係においてもそこには何かしら依存的な要素があったように思う。そして、やはりその依存相手の気に入られるように、あるいは可愛がられるよう無意識に振舞っていたように思う。その思いは恐らく、自分を発信したいという本能的欲求に近いものか、その裏返しのようなものなのだろう。

それまで依存していた相手と袂を分かつと、しばらくは「あいつへの恨みを何としてでも晴らしてやる!」と憎悪を燃やしていた。依存相手との関係には文学・小説が少なからず介在していたので、胸の中で「文学賞を取ってデビューしてやる!」と呪文のように唱え続けていた。文学という共通項があった上で依存していたわけだから、恨みを晴らすには文学において相手を超越しなければならない、というわけだ。けれども文学賞は一次選考すら通らず、早くデビューしたいのに一向に前進できない状況が続いて、怒りと焦燥の入り混じった感情が渦巻いていた。

けれども、ツイッターを始め、ブログを始めたら、少しずつ変わってきた。文学などについて、なるべく読者が何かを得られる記事を書こうと努め、なおかつそこに少なからず自分の思いを流し込むようにしてみたのだが、これが簡単ではないけれどけっこう楽しい。それにツイッターでもブログでも、時に閲覧数が多くなったり、リツイートや「いいね」をしてもらったりすると、私の書いたものが読者にとって何かしらプラスになったのではないかと思う。このことは率直に言って、もっと書こう、もっと面白くしよう、という思いが生まれることにつながっている。

そしてその状態がしばらく続いて、上述のように、他人への依存度が下がっている。ネット発信を始めてから袂を分かった相手にも恨みはあるが、発信しないでいた頃より精神的苦痛は少ない。それはやはり、自分の思いを記事に乗せて発信できているからだと思う。

狭い関係性の中では目の前の人に依存してしまう。それは私が弱い人間だから、お人好しの甘い人間だからである。しかし自分の考えを、その関係性の外で発信することができれば、相手との関係は相対化され、依存せずに済むようになると思う。もちろん、発信する場はべつにネットでなければならないわけではないはずだ。

〈杉本 純のツイッター