杉本純のブログ

本を読む。街を見る。調べて書く。

経糸と緯糸

ものごとの経緯を伝える叙述は経糸で、ものごとの様子を伝える描写は緯糸

経糸の典型的な文章はニュースリリースなどの報告・説明で、ほぼ全てが経糸でできている。緯糸の典型的なものといえば短歌や俳句といった詩で、心理や情景が描写によって縷々述べられる。しかし両者ともその限りではなく、だから厳密な区分けはできないはずだ。

経糸緯糸もふんだんに入ってくるものといえば、一般的には小説やノンフィクション、ルポルタージュなどになると思う。これらは当然ながら経糸がないと成り立たないけれど、緯糸がないとひどく味気ないものになる。緯糸が大部分を占める場合もあるかもしれないが、だからといって経糸がないと観念的になりすぎてしまうのではないか。

経糸は理解をもたらす。緯糸は感動をもたらす。しかしそれも画然と分けられるものではない。しかも、両者の効果は、それぞれ他方の効果にいくぶんか依存するところもあるだろうと思う。つまり、経糸の理解なしに大きな感動はなく、緯糸の感動なしに十分な理解もない、ということ。

経糸は読み手に放たれる。緯糸は読み手を引き寄せる。経糸は読み手の感性をことさら期待せず、緯糸は読み手の知性をことさら期待しない。読み手は経糸を読んで考え、緯糸に接して感じる。

経糸=叙述は読み手を前進させ、緯糸=描写は読み手を停滞させる。読み手は文章の経糸緯糸に乗って、ものごとの始まりから終わりまでを辿り、その過程のところどころで風物を見聞きする。

ざっとこんなところかなと思う。