杉本純のブログ

本を読む。街を見る。調べて書く。

師匠よりも医者

ノンフィクション作家の立花隆は『「知」のソフトウェア』(講談社現代新書1984年)の冒頭で、長年にわたり生業としてきた自分の仕事は一般論が成立しない世界だと言っている。私はまさにその通りだと考えていて、十人のライターがいれば取材の仕方も原稿の書き方も十通りあるんだろうと思っている。もしそこに統一されたやり方が存在するのなら、ライターはれっきとした資格になり得るのじゃないかとすら思う。

二十代か三十代前半の後輩ライターと接していると、たまに、どうやったら早く書けるか、どうやればいい文章が書けるか、などと聞かれる。しかし上に述べたように、こうやればできる、といった統一的なやり方は存在しないと思っているので、あくまで、俺はこうやってるよ、と自分がやっている方法を伝えるに留めている。

しかし、私の経験では、立花の本が出たはるか後の、私が二十代だった頃(もう十年以上も前)に、インタビューの極意はこうだだの、優れた原稿とはこういうものだだの、言い切るように話す人がいた。今でも四十代か五十代のライターにはそういう人がいるかも知れない。

それはそれで、一家言ある人なのだと肯定的に受け止めることはできる。しかしもちろんそういう先輩たちの言う通りをやったところで、同じ結果にはならない。当時の先輩たちも、恐らくそういうことは知っていたのだろう。けれども勘どころや細かな技術を上手く説明できないので、ぶっきらぼうに言い切っていたのだと思う。

ぶっきらぼうに言い切る言い方は、しかし、かっこよく見える。一方で、それでできないならお前の修行が足りないんだ、というニュアンスを含んでいるように思う。

そういう教え方を、私は「師匠型」と呼んでいる。それは、弟子は自分に死に物狂いでついてくるべき、ダメなら勝手に脱落してしまえ、という考え方が前提になっているのではないか。師匠は決して多くを語らず、目で見て覚えろ、盗め、といった姿勢である。そういう人は、私の周りに実際にけっこういた。

落語など芸人の世界ならそういうことは今でもあるのだろうし、ライターの世界もそういう風習が残っているかも知れない。しかし少なくとも私が属しているライターの世界では、そういうのが通じるとは思えない。

あるいは、師匠が弟子のキャリアを約束できるなら、そういう乱暴な指導法もありだろう。弟子からすれば、師匠がわけが分からず乱暴でも、しばらくの間ついて行けばキャリアアップができるからだ。しかし今は後輩のキャリアを先輩が約束するなどというのは難しいだろう。

だからというわけではないが、私は教える時は「医者型」であるのを心掛けている。例えば後輩が原稿がなかなか早く書けないと言った時、その原因をヒアリングを通して探り、それをつぶす方法を教える。その原因がライターの仕事への姿勢、あるいは生活習慣にあると思えた場合には、それを改善する方法や考え方を教える。決して乱暴に言い切ったりはしない。

後輩は後輩で自分の仕事をしており、そこには私の知らない仕事相手がいて、個々の問題を抱えている。それに加え、生活習慣、勉強の質と量、語彙力、表現手法をどれだけ知っているか、といったことも後輩たちが個別に抱えている問題である。それらが折り重なり、具体的な課題となって本人の目の前に立ちはだかっているのだから、そこに私のやり方を出して「こうやりゃいいんだ」みたいに言うのは無茶だと思っている。

だからといって、「医者型」であれば後輩がきちんと育つかというと、そうでもない。やはり、伸びる奴はどういう教え方をされても伸びていくものだと今は思っている。