車谷長吉の『錢金について』(朝日文庫、2005年)は、ある人に紹介されて読んだ。その中に「読むことと書くこと」という、鷗外記念本郷図書館での講演の加筆修正版(初出は「三田文学」2001年冬季号)があり、小説を小説たらしめる「虚点」についての車谷の考えが述べられている。
車谷は「虚点」について多角的に述べているが、つまり文中に非日常性や非現実性を盛り込むのが小説の小説たる必須条件だ、というふうに語っている箇所があり、初読した時なるほどと私は思った。
たとえば「私たちは郊外のレストランへ行って、虎の肉を喰った。」ということは、普通にはあり得ないことだから、これは文学における「虚点」ということになる。
(中略)
「その作品を作品たらしめている根拠」のようなものが、私が申し上げている「虚点」です。「虚点」のないものは、小説にも詩にも短歌にも俳句にも何にもなりゃあしない。
その後、私は大江健三郎の小説の書き方などを読み、車谷の言う「虚点」は大江の言う「異化」と同じことではないかと思った。
「異化」について大江は『小説のたくらみ、知の楽しみ』(新潮文庫、1989年)の中でこう述べている。
ありふれたものとして眼にとまらなくなっている事物を、あらためていちいち意識にきざみつけられるようにする、表現の手つづきです。
これはつまり、非日常性、非現実性ということと同じだと思うのだ。