杉本純のブログ

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自分軸、自己本位、不惑

立花隆の『青春漂流』(講談社文庫、1988年)を読んでいるのだが、冒頭に興味深い箇所があった。

 青春というのは、それが過ぎ去ったときにはじめて、ああ、あれがオレの青春だったのかと気が付くものなのである。
(中略)
 それが青春であるかどうかなど考えるゆとりもなく、精一杯生きることに熱中しているうちに、青春は過ぎ去ってしまうものである。
 ぼくの場合もそうだった。ある日突然、ああ、オレの青春は終わったなと自覚した。そう遠い昔のことではない。正確には覚えていないが、片手で数えられる数年前である。
(中略)
 平均的には、三十代までを青春期に数えていいだろう。孔子は「四十にして惑わず」といった。逆にいえば、四十歳までは惑いつづけるのが普通だということだ。
 ぼくの場合もそうだった。青春が終わった自覚と共に、孔子がいった「不惑」とはこういうことであったのかと思った記憶がある。

この本の単行本は1985年にスコラから刊行されたもので、とすると上のように述懐した時、立花自身はたしかに四十歳を過ぎていたようだ。

その箇所を読み、私は「自己本位」とか最近よく言われる「自分軸」は、この「不惑」に近いものじゃないかと思った。自分の生きる道や力量や限界、要するに自分のやりたいことややるべきこと、できることとできないことをよく知っており、それに沿って物事を選択、判断する「軸」ができている状態。

私の場合、青春というと七転八倒していた二十代とか三十代の自分が思い出される。たしかに当時はその状態が青春だとは考えていなかったと思う。自分の「軸」というか、「不惑」の状態というと、まだ不完全だとは思うがたしかに近ごろそういうものが形成されてきたように感じる。

失敗の可能性を考慮していたか、無謀だったかというところは、その線引きは難しいと思った。私自身、映画の道に踏み入るに際して、失敗する人がいないはずはないと知ってはいたが、自分が失敗することなど考えていなかった。失敗など考えていたら、そもそも踏み込めなかっただろう。ただ、学校を出る時は、そのままフリーの助監督とかフリーターでもやりながら脚本書いていこうかな、などと能天気には考えておらず、つまり無謀ではなかったと思う。

立花は、はじめから老成していて青春などに興味がない若い人が、最近は増えていると書いている。この本は1980年代に出て約三十年が過ぎているが、今の二十代くらいの若い人がどうなのか、よく分からない。周囲には勤め人気質の人が多いと感じる。