杉本純のブログ

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小説と犯罪

三島由紀夫の『小説読本』(中央公論新社、2010年)に首を傾げる箇所があった。この本は小説に関する三島のさまざまな随筆を集めたもので、当該箇所は「小説とは何か」という、『波』に1968年から三島が自決する1970年まで連載されたエッセイの一部。

 ドストエイフスキーの「罪と罰」を引張り出すまでもなく、本来、芸術と犯罪とは甚だ近い類縁にあった。「小説と犯罪とは」と言い直してもよい。小説は多くの犯罪から深い恩顧を受けており、「赤と黒」から「異邦人」にいたるまで、犯罪者に感情移入をしていない名作の数は却って少ないくらいである。
(中略)
犯罪は小説の恰好の素材であるばかりでなく、犯罪者的素質は小説家的素質の内に不可分にまざり合っている。なぜならば、共にその素質は、蓋然性の研究に秀でていなければならぬからであり、しかもその蓋然性は法律を超越したところにのみ求められるからである。

三島は続いて、性善説によって単純に社会や政治を悪いとしたり、通俗を嫌って性悪説を持ち出したりするのを批判しているのだが、犯罪には「特権的な輝き」があるなどと書いている。

推理小説作家かハードボイルド作家がこう言うならまだわかるが…。これが文学を指してのことなら、犯罪と結びつけて考えるのは間違いだと私は思う。文学は「人間の本当の姿」を描くものだと考えていて、必ずしも犯罪と結びつくものではないと思うから。ある人間がいろんな出来事を経て、結果として犯罪をしてしまった、というならそういう話になるだけのことで、人間を描くことすなわち犯罪を描くことではないと思う。

例えばゲーテの『若きウェルテルの悩み』。婚約者がいる女を好きになってしまった男の苦悩を描いており、その葛藤が書簡を通して描かれている。主人公は最後に自殺してしまうが、人を殺したり強姦したりはしていない。成就しない恋愛に気が狂うほどもがき苦しむところに人間らしさがあるのであって、それが感動を呼ぶのだと思う。