杉本純のブログ

本を読む。街を見る。調べて書く。

ドーパミン、オキシトシン、セロトニン

先日たまたま、樺沢紫苑『精神科医が見つけた3つの幸福 最新科学から最高の人生をつくる方法』(飛鳥新社、2021年)を紹介している動画をようつべで見た。

実際に読んでいないので確定的なことは言えないのだが、本書によると、ドーパミンオキシトシンセロトニンは幸福感を感じさせる脳内物質で、「3大幸福物質」などと言われるようだ。それは、世界的に共通していることらしい。

ドーパミンはドキドキするような高揚感や興奮をもたらすもので、お金を稼いだり成功したりすることで得られるらしい。一方で、同じ体験を続けてもだんだん高揚感は麻痺してくるため、もっと大きな高揚感を、とエスカレートする中毒性があるとのこと。

オキシトシンは家族や友人などの人間、あるいはペットとのつながりや愛情のこと。そしてセロトニンは、爽やかだったり安らかな気持ちだったり、心身の健康につながっている。

で、動画の解説では、ピラミッドのように、下からセロトニンオキシトシンドーパミンの順で積み上げるのが良いとのことだった。セロトニンオキシトシンが不足している状態でドーパミンが大量に出てしまうと、それを追い求めるあまり健康や人間関係を破壊してしまうのだそうだ。つまり、健康な生活をし、人間関係もある上で、お金を稼いだり成功を求めたりするのが順当、ということらしい。

動画を見て考えて、こう思った。ワナビの焦燥や不安は、もしかしたらセロトニンオキシトシンが十分でないままドーパミンを出そうとしている状態なのかも知れない。私自身かつて、作品を書きながら心身を磨り減らし、イライラするあまり人間関係も悪くなっていたが、新人賞を取れば人生ぜんぶ一発逆転できる、といった発想で取り組み続けていた。しかしけっきょく野望は果たせず、健康を害し、孤立状態のようになってしまっただけだったように思う。最近では、よく寝て頭が冴えている方が、作品を書く上では望ましいと思うようになっている。

ポオの描写力

エドガー・アラン・ポオの「ナンタケット島出身のアーサー・ゴードン・ピムの物語」(大西尹明訳『ポオ小説全集2』(創元推理文庫、1974年)所収)を読んでいる。

これはポオ唯一の長篇小説で、私は学生の頃にポール・ツヴァイク『冒険の文学』(中村保男訳、文化放送、1976年)を読んでその存在を知り、大岡昇平『現代小説作法』(文藝春秋新社、1962年)でデフォーの『ロビンソン・クルーソー』と書き出しの巧さを比較されていたのを読んで、ずっと読みたいと思っていた。なお大岡はポオよりもデフォーの方が格段に巧いと述べていて、その理由には納得させられた。

Wikipediaでは本作は地球空洞説が導入されているらしい節が読み取れるが、まだそこまで読んでいない。だが、冒頭からとにかく描写力の高さに唸らせられる。船の内部や、その中に施されている小さな仕掛けの説明などまで、描写を通してリアルに想像できるのだ。

事物や光景を稠密に描出していく行文は、ポオの感性が高精度スキャンのように異常なほどに鋭敏だったのを想像させる。ポオってどんな人だったのか。ポオの伝記は持っているが未読なので、小説とともにこちらも読みたい。

ワナビに悲しむ暇はない。

私見だが、ワナビの多くは、学生時代にワナビを卒業することなどできず、会社勤めをしながらワナビであり続けるのではないだろうか。もし学生時代にワナビを卒業できてしまったのだとしたら、その人の「ワナビ度」はその程度のものだったんだと思う。つまり、ワナビゆえに味わうであろう焦燥や渇望が、学生から会社員へ、という立場の変化を遂げるだけで解消されてしまう程度の弱いものだった、ということだ。

さて、もしワナビが社会へ出てからも解消されない、要するに一種の「こじらせワナビ」になってしまったとしたら、社会人を続けながらワナビを卒業するための努力と行動が必要になるだろう。その具体的な道のりは、限りある時間をどうにかやりくりして作品を生み出し、世に問い、評価されてステップアップする、ということになると思う。

ところがそれが楽ではない。勤め人なら自分の時間はだんだん持ちづらくなり、結婚して家族ができようものなら尚更である。

自分の時間が、会社や他人、家族にガリガリ削り取られるのは辛い。時に相手を恨みたくなるし、自分の不運を嘆きたくもなる。私自身、「自分の時間の創出」は長く大きなテーマになっていて、あれこれと創意工夫しながら取り組み続けている。うまくいかず、悲しくなってくることも多い。

だが、悲しんだって作品は書けないのである。作品を完成させるには、四の五の言わずとにかく書くしかない。悲しんでいる暇があったら、一行でも一文字でも書いて作品を完成に向かわせろ、という話だ。ワナビに悲しんでいる暇はないのである。

休息と睡眠

知的作業をするには休息と睡眠を十分にとり、仕事に集中できるよう身辺をできるだけ簡素にすることが大切だと思う。

というのは、最近ようやく、調べ物と書き物の熱がふたたび上がってきた。それまで公私ともにけっこう慌ただしく、かといって休息もよくとれず疲れていたのか、どうも気力が湧いてこず調べ物も調べ物も思うように進められなかったが、やっと戻ってきたのだ。

生活をできるだけシンプルにしようと努め、休息と睡眠を大事にした。普段はただでさえ忙しい上、図書館の本を少しでも食指が動いたら手に取り、その結果、常に貸出制限の二十冊まで借りて、借りたんだから読まなきゃ、という心理が働いていちいち目を通していたが、徒らに興味を拡散させるのをやめて深く読むようにした。同じように、気になった番組は録画していたテレビや、好奇心の赴くまま意味なく次から次へとリンクを辿っていたネットの調べ物もブレーキをかけた。

夜はだらだら作業せず睡眠を取ることに意識を向け、日中も、疲れや集中力の途切れを感じたら無理して続けることをせず飲み物を飲んだり日光を浴びるようにしたりした。散歩をして気を紛らわせ、時には公園のベンチに座ってボーッとした。

そういう生活をずっと心掛けていたら、調べ物と書き物への意欲が増し、また以前のように集中できるようになってきた。

あれもこれも手を出し、その結果どれも形にならない、といったことは集中力について書かれたビジネス書などでたまに見かける。また経営でよく言われる「選択と集中」ではないが、一定の成果につなげたいならば、取り組むことを絞り、それに集中することが大事だろう。

そしてそれを継続するためには休息と睡眠を十分にとることが重要だ。睡眠の大切さは最近よくメディアで紹介されているが、情報の洪水の中にいる今の生活にあって、脳をきちんと働かせるには、きちんと休ませることが肝要だろう。また、疲れた時にはボーッとすると、脳のデフォルト・モード・ネットワークという回路が活発になり、思考が整理されるらしい。

思えば、二十代や三十代の頃は無茶ばかりしていた。「今しか努力できない」などと考え、疲れていようが辛かろうがお構いなしに読書や創作に取り組んだものだ。しかしあれは若かったからできたわけではない。当時も単なる無駄でしかなく、さしたる成果も結ばなかったのだ。それを思い込みで覆していたに過ぎなかったのだろう。そこには自己陶酔も混じっていたかもしれない。

板橋で開発されたステンレス製流し台

BSで再放送されたNHKの「プロジェクトX 妻に贈るダイニングキッチン」を観た。日本住宅公団による戦後の住宅供給の裏にあった「ダイニングキッチン」開発の挑戦を描いたもの。面白かった。番組ナレーションでは、公団の住宅計画部課長を務めた尚明(しょう・あきら)とその妻を映し、一組の夫婦の思いが日本の住宅を変えた、みたいに言っていたが、それはさすがに言い過ぎじゃないかと思ったが。。

「ダイニングキッチン」は和製英語なのだが、これを開発するにあたり最大のカギになったのが、ステンレス製の流し台だった。これは、当時かなり高価なものだったらしい。これを安価に供給することを請け負ったのが、サンウエーブ工業という会社である。導入したプレス機でいかにステンレスをきれいにプレスするかが開発の難関だったが、その挑戦をしたのが同社の板橋工場だったとのこと。

いったい板橋のどの辺にあったのだろうか。調べてみたら面白そうだ。板橋の近現代の郷土史に興味がある。

「人生の門出」

北村薫『六の宮の姫君』(創元推理文庫、1999年)を読んだ。

芥川龍之介の王朝物の短篇「六の宮の姫君」の成立事情を調査と推理で追究する内容で、いうなれば書物の世界の探検記である。面白かった。内容からして、文学の玄人向けの作品と言えるだろうが、女子大生の「私」を視点人物とした読みやすい文章になっている。

文学作品の成立事情の追究は面白い。それは私も実体験を通して知っているが、その文学研究の過程を、こういう風に書けば立派な一篇の長篇になるんだ、と本書を読んで感じた。佐藤夕子による解説には「学問というのは、もともとミステリ向きなのである」とあるが、たしかにそうじゃないか、と思った。

解説の最後には、創元推理文庫は国内作品にも横文字のタイトルが付いている、として、本書は、北村薫の希望でバルザック「人生の門出」の英訳し直した言葉(「A GATEWAY TO LIFE」)になっている、とある。私はバルザックの「人生の門出」は未読で、こんど読んでみたい。

「人生の門出」のあらすじをネットでざっと確認したところ、『六の宮の姫君』の主題とは関係なさそうな感じがした。だが、女子大生の「私」は大学の学問の集大成として卒論を書き、社会に出て行くことになる。それは言うなれば、「私」が「人生の門出」に差し掛かったのだと言える。また、本書に出てくる芥川や菊池寛などのエピソードを読むと、人生の分岐点のようなものを感じさせる。作者はそういった観念を想起させようとしたのかも知れないと思った。

金融道

中居正広主演のテレビドラマ「ナニワ金融道」を全て観た。これは1996年に放送されたもので、主題歌はウルフルズの「借金大王」である。この歌、いい。

原作からドラマにするにあたり、けっこうアレンジが加えられたのはこのブログで前にも書いた。私は原作の血も涙もない、ざらざらした「街金」の世界が好きだが、それよりはウエットに描かれているドラマの方も面白かった。

最後は、主人公の灰原が自分が目指す「金融道」の実践として、マルチ商法の女に融資したいと社長に申し出て、自ら連帯保証人になってチャレンジする内容になっている。それだけでなく、パチンコ依存症の女(高岡早紀)や恋愛商法をする女(池脇千鶴)との恋愛なども付加され、一つの長篇になっている。パチンコ女や恋愛商法の女は大筋には直接関係しないものの、最後は(灰原の勤め先の)帝国金融と大阪府警との駆け引きにまで発展し、二人との灰原たちの関わり方が警察のカードの一つにされてしまう。

マルチ商法に融資して一緒に儲けよう、つまり、客をカタにはめてお金を搾り取るのではなく客と一緒に成長しよう、というのが灰原の「金融道」のようだ。これに対し、緒方拳扮する社長は、客を育てようと思うな、といったことを言う。

金融業者が、融資した顧客と一緒に成長しようとすることは、あり得ないことではない。しかし帝国金融は高利貸しだし、貸す相手はマルチ商法なのだから、灰原の思想は無茶というしかない。社長の方が正しい。つまり灰原は甘いわけだが、シナリオも当然その甘さが仇になるように描かれている。

むろん銀行が融資先にいろいろアドバイスして一緒に成長しようとするのだって、それが自分の利益になるからやるのである。成功する見込みのない会社の経営者が頭を下げてきたって貸したりはしない。慈善事業ではないのだから。