杉本純のブログ

本を読む。街を見る。調べて書く。

『勝手にしやがれ』と『気狂いピエロ』

映画に血道を上げていた頃、ヌーヴェルヴァーグの作品もいくつか観た。

それは、私の実感では映画青年の宿命とも言うべきもので、もし若い人が脚本家や監督などのワナビになったら、「ヌーヴェルヴァーグ」の作品群は一度は通過しなくてはならない関門の一つになるだろう。私が行っていた映画学校の学生たちも大半は観ていたと思う。観ていなかった人は、それほど意識が高くなかった人だろう。

ヌーヴェルヴァーグといえばゴダールで、ゴダールといえば『勝手にしやがれ』と『気狂いピエロ』である。この二作を学生時代に立て続けに観たが、ぜんぜん面白くなかった。どうしてこんなものが有名なのかさっぱり分からなかった。しかし当時の私は迷妄に覆われた映画青年で、作品のすごさが分からない自分がいけないのだと思い込んでいた。

映画学校でお世話になった先生の一人が、自分の最も好きな映画は『勝手にしやがれ』だと言っていて、ああやっぱりあの作品は傑作なんだなと思ったものだった。

勝手にしやがれ』が映画史に名を刻んでいるのは事実だから、ひとまず「名作」と言ってもいいのかも知れない。『気狂いピエロ』も、同様だろう。

私は溝口健二の作品が好きだが、溝口はヌーヴェルヴァーグの監督に影響を与えたらしい。誰にどんな影響を与えたのか知りたい気もするが…。

気狂いピエロ』には思い出がある。映画学校の先輩たちや同級生たちと飲み会をした時、私は「きぐるいピエロ」がどうのこうのと言い、先輩たちに笑われながら「きちがいピエロ!」と訂正された。このタイトル、今では絶対に使えないだろう。

俳優になりたかった

ある人がブログで、自分が一瞬だが俳優になりたいと思っていたことを書いていた。それを読み、そういえば私も短いが俳優を目指していた頃があったなぁ、と思った。とはいえ「一瞬」ではなく、いちおうオーディションを受け、合格して舞台にも立ったのである。

学生時代、地元で(たしか自治体による)演劇プロジェクトが立ち上がり、舞台公演をするということでアマチュア俳優を募集していた。その頃すでに私は日本映画学校への入学を決心し、脚本家兼映画監督になるぞと燃えていたが、俳優をやってみたい気持ちもあった。現に、一時期は映画学校俳優科(現在は廃止されているらしい)にも受験しようと考えていたほどだったのである。

どうして俳優になりたいと思ったのかというと、もう正確には思い出せない。若い人によくある、自己陶酔を含んだ、とめどない表現欲求からくる願望だったのではないかと思う。

マチュア俳優を募集していた頃はもう俳優になる気持ちはなかったが、何事も経験と思って応募したように記憶している。オーディションは即興芝居をするものだったが、自分では上手く演じられたかどうかぜんぜん分からなかったものの、合格した。定員は十人くらいだったはずだが、後で聞いたら、男性の応募者は定員より一名多かっただけとのことで、間違いなく、実力で合格したのではない。

スタッフはプロの人たちが参加していたが俳優は全員アマチュアで、舞台のクオリティはいま思うと、情けないほど低いものだっただろう。自宅には舞台を記録したビデオ(VHS!)があるが、いま見たいとは思わない。だが、舞台に立って人前で演じたのはいい経験になった気がする。家族が観にきてくれた。幕が降りた後、帰っていく観客を俳優たちがホワイエ?で見送った時、祖母ちゃんが泣いていた。

書物の世界の探検

北村薫『六の宮の姫君』(創元推理文庫、1999年)は推理小説だが、書物の世界を探索して真実を追究するストーリーになっている。その過程は、言うなれば伝記的な文学研究の過程のように見え、面白いし参考にもなるのである。

私は文学研究の真似事をしていて、ある小説家のことを根掘り葉掘り調べている。過去の文藝誌を読んだり、その作家が住んでいた場所を実際に訪ねてみたりするのだ。それは書物の世界と現実の世界の両方を歩き回り、点と点をつないで線にする地道な作業である。

分からないことも多い。そういうのが出てきた場合には推理をすることもある。『六の宮の姫君』もまさにそういう推理を行う小説、書物の世界の探検を描いた小説と言えると思う。

人間と神の関係

本多信一さんの本で紹介されていたことから曽野綾子の『心に迫るパウロの言葉』(新潮文庫、1989年)を読み、さらにキリスト教に興味が出てきたので、曽野『[図解]いま聖書を学ぶ』(ワック、2011年)を読んでいる。

私は無宗教者だし、いわんやキリスト教徒でもないが、食わず嫌い?なところがあったのは事実で、キリスト教の知識を教養として身につけたいと思う。それで曽野の本を読んでいる。

印象に残った箇所がいくつかあったが、中でも「山上の説教6 施しをするときには」には大いに共感するところがあった。

「神は隠れたところを見ている」という小見出しがついていて、困った人への「施し」は、日本では否定的な人が多いが外国では美しいことだとされているとある。そして、だが人の前で施しをするのは偽善だとイエスは言った、と曽野は言う。エルビス・プレスリーの「神のみに知られた」の詞を引用したうえで、次のように書く。

神と人間は他人の介入できない形でよく知られている秘密な関係です。私は秘密な関係というのが、ちょっと好きでもあるのです。

その通りだと思う。「神」というものがもしいるとしたら、それはそれぞれの人の心の中にいて、他人は決して介入できない、とかねて考えていた。

自分の心は他の誰も見ることができないが、自分は見ている。良心も悪心も、自分はその働きを自覚することができ、他人は難しい。「神」は良心に従った行動を勧めるのだとしたら、「神」は自分の良心そのものかも知れない。

そんなことを書くこと自体が「神」の存在を認めている証拠であるかも知れず、とすると私は無神論者ではなくなるわけだが、良心は存在していて、それをある人々が「神」と呼んでいる、ということじゃないかと思っている。

谷崎潤一郎と異化と虚点

先日、谷崎潤一郎の『文章読本』(中公文庫、1996年改版初版)を読み返す機会があった。初読は、奥付の私自身によるメモを見ると2003年になっているので、もう二十年近くも前になる。

谷崎については一時期集中的に小説や研究書・評論の類いを読んだが、それがだいたい十五から二十年前のことだ。そう考えると疎遠になって久しいのだが、『文章読本』をさらっと読み返しただけでも面白い、ためになるところが数か所あった。

例えば「一 文章とは何か」には、

現代の口語文では、専ら「分らせる」「理解させる」と云うことに重きを置く。

と述べられたずっと後に、

真に「分らせるように」書くためには「記憶させるように」書くことが必要なのであります。

と述べられている。

これは要するに「異化」ということじゃないかと思った。これまで大江健三郎の本で読んだ「異化」は、知覚を長引かせるということで、分らせる、記憶させる、通じる気がする。あるいは車谷長吉は『錢金について』(朝日文庫、2005年)で、文中に非日常や非現実を盛り込む「虚点」が文学の必須条件と書いていた。これも、記憶させる、ということに通じるように思う。

心を亡くす

「忙」の字はりっしんべんに「亡」と書くので、つまり「心」を「亡くす」という意味だと、過去に何度か聞いたことがある。要するに、あまりに忙しいと「心ここにあらず」の状態になってしまい物事に落ち着いて取り組むことができなくなり、その結果、同僚はもちろん、友人や家族にも素っ気ない態度を取ってしまい、良いことが一つもない、といったことだ。

「忙」という字の語源は知らないし、そのような解釈の仕方は「人間は人の間と書く」式の凡庸さを感じるのであまり好きにもなれない。とはいえ、たしかに人間、あまりに忙しいとそんな風になってしまうだろう。

私自身、公私ともにけっこうやることが多く、自分がどこかへ行ってしまったように落ち着かいことが多い。だから最近は、仕事も生活もとにかく簡素に、シンプルにしたいと思うようになった。マーク・ザッカーバーグがたしか、いつも緑のTシャツを着るのは決断の回数を減らすため、といったことを言っていた。それと似ているかもしれない。まあ私は大企業のCEOではないけれど、仕事でも生活でも扱う情報の量が増え、ツールも多様化した。こうなるともう昼間はずっと情報に取り巻かれて頭がフル回転状態で、物をじっくり考える余裕もなく、たくさんのことを決めなくてはならない。こうなると人間は自分というものを確認できないくらい「忙しい」、つまり心を亡くしている状態と言えるかもしれない。気をつけたい。

板橋区立熱帯環境植物館「穀物展」

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板橋区立熱帯環境植物館(グリーンドームねったいかん)で9月14日から10月3日まで開催した「穀物展」に行ってきた。

お米や小麦、雑穀などについて紹介するという展覧会。小規模かつ地味な展示だったが、穀物に関するクイズがあり、SDGsなどについても学べる内容になっていた。

グリーンドームねったいかんは年中、いろんな企画展をやっている。隣には温水プールがあるので、一回行くと半日は楽しめる。クレアという喫茶室があるので食事と休憩もできるが、コロナ禍の影響で今は休んでいる。