杉本純のブログ

本を読む。街を見る。調べて書く。

板橋区立郷土資料館 古民家年中行事 タナバタ祭り

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板橋区立郷土資料館で7月3日から11日まで開催の「古民家年中行事 タナバタ祭り」を見に行ってきた。この郷土資料館には江戸時代後期に建てられたという、「旧田中家住宅」という古民家が移築展示されている。その中でヒナマツリや端午の節句といった年中行事を展示しているのだが、伝承に忠実に再現しているらしく、見応えがあって面白い。

今回は「タナバタ飾り」が古民家の外に再現されていた。「タナバタ祭り」は、無病息災や五穀豊穣などを祈願したり、裁縫や習字の上達を願ったりする行事であるそうな。ここでは、赤塚地域で昭和三十年代頃まで使われていたタナバタ飾りを再現したとのこと。

七夕といえば願いを書いた短冊をつけた笹飾りくらいしか知らないし、見たこともなかった。ここではさらに、地元で採れたという真菰(まこも)を使って「マコモ馬」という馬を作り、食べ物を供えている。昔の暮らしをいろいろと想像しながら見た。

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右側の首が立っている馬が雄、首が下がっている馬が雌らしい

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自分ノイローゼ

悩み人間とは換言すれば――自分の事柄に対して深く思索しているうちにノイローゼになった人ということである。
 他人の目線の微妙なニュアンスの中に自分への否定を感じて大いに考え込むようになり、先輩や上司の言葉を深く考えてしまって我が心を傷つける私たち――この心的態度の積み重ねが、元気を奪いノイローゼを生む。

本多信一『内向型人間の仕事にはコツがある』(大和出版、1997年)に、そんな風に書いてあった。内向型人間が一種の自意識過剰になってしまう経緯は、だいたいこういうものではないかと思う。

自分に対し深く思索しているうちにノイローゼになる、というのはとても分かる気がする。内向型人間のこういう傾向は、「自分病」とでも名付けられそうな気がする。著者の本多は、しかしその深く思考する力が、成功をもたらすともいう。悩み苦しむからこそ、その過程で思考を押し進め、鍛えられるのだと思う。

お金のはなし8

知人と投資に関する話をすることが、たまにある。だが、ほとんどどの知人も私とはお金に対する価値観が違っていて、だいたい話は嚙み合わない。

知人の何人かは、お金を突っ込んだら何倍にもなって戻って来るという、ギャンブル性の高いキャピタルゲイン狙いの投資をしているようだ。ところが、何日か前に話をした知人は、S株をちょびっとずつ買っていたようで、それがちょっと値上がりしたところで売却して次のS株買いの資金にするという、パチンコで小遣い稼ぎをするような投資スタイルだった。損してもそんなに痛くないけれど、得したところで大したものでもないというわけだ。

こういうのは一種の道楽、文字通りパチンコのようなギャンブルだと思う。要するに運任せで、株価がどんどん上がっている最中は興奮し、良いところで売り逃げできれば大儲けでバンザイ、逆に逃げるタイミングを失してしまうと大損で気分は最悪である。

ギャンブルの高揚感を味わいたいならいいだろうが、なるべくリスクを減らしつつ、自分の財産を長く育てていきたいと思う人には向いていないだろう。

私の考えでは、お金は距離を保って正しく使うべきで、ギャンブルをやりたいならそれもけっこうだが、大損したら憂鬱になってしまうようなお金の突っ込み方は精神的にダメージが大きいのでしない方がいい。あわよくば何十倍に…などと考えてちょびちょびS株を買う知人のような使い方は、ある意味ではお金との距離が保てているからいいかも知れない。まぁそれはそれで、ギャンブルの醍醐味も「単元未満」で面白くないだろうが。

小説家は映画俳優

鈴木輝一郎先生のインタビュー記事。朝の通勤電車の中で読んだ。

小説家はたいてい、読者から拍手喝采を浴びない。その点で、舞台で演技する舞台役者ではなく、カメラの前で演技する映画俳優だという。

作品が複製され、全国とか世界にまで同じものとして行き渡る点でも、映画と小説は似ているかもしれない。舞台は基本的に生(なま)だから、お客さんは劇場に行かなくては観ることができない。舞台の様子をDVD化したものは、もはや舞台ではなく別の商品ということになると思う。

宮原昭夫は『増補新版 書く人はここで躓く!』(河出書房新社、2016年)で、読書は音楽に譬えたら演奏で、小説の文章は楽譜だと、小沢信男の言葉を引いて述べている。

つまり、小説家は演奏者ではなく読者が演奏者であり、小説家は楽譜をつくる人、といったことになるか。読者が小説の感動を味わうのは机の上とか蒲団の中で、小説家がパフォーマンスをするのもこれまた自分の机の上とかである。その間に編集やら印刷やらの工程が介在している。

今は小説を発表する媒体種が多いと思うが、その前提は変わっていないと思う。

クリエイターワナビ

最近ふと思いついた言葉。クリエイター志望者の中には、クリエイティブが楽しい、というより、クリエイティブってカッコイイ、と思っている人が多いのではないか…そんな風に思ったことから、この言葉が浮かんだのだ。

長年クリエイティブの世界に身を置いているということもあり、これまで星の数ほどのクリエイターを見てきた。その経験から何となく言えるのは、クリエイティブってカッコイイ、と思っている人は、クリエイター(ライターとかデザイナーとか)になった時点、つまり会社に入ったりして名刺を手に入れ、仕事をやり始めた時点で幸せな気分になり、猛然と仕事をやるが、その陶酔の熱気はやがて冷め、ついにはハードワークゆえにバーンアウトしてしまう、という末路を辿る傾向があることだ。これに対し、人の話を聞いて文章を書くのが好きだし楽しい、要素を整理してかっちりとまとめたり飾ったりしてデザインするのが好きだ、という人は、仕事そのものに快楽があるため、長続きする。仕事の楽しさを実感しているのである。また、本当に好きかどうかという点ではこれが割と大きなポイントなのだが、本当に好きな人は、プライベートでも書いたりデザインしたりしているのである。

カッコイイ的な気持ちでクリエイターを目指す人は、つまり「クリエイターワナビ」みたいなものかと思う。クリエイティブが心底好きというより、何者でもない自分に満足できないでいるのである。

繊細さとタフさ

ライターという職業は、文章を通して何かを伝えたい人のために文章を書く人である。つまり一種の代筆業なのだが、代わりに書いて欲しいという人のことを一般にクライアントという。クライアントの要望を聞き、それを実現する文章を書くのは、往々にして楽ではない。クライアントによっては要望がやたら細かく、また要望の内容が前と後とで変わってしまう気まぐれな人もいる。

その良し悪しは別として、ライターはそんなクライアントの要望をかなえ、時にプロとしての助言することなどが求められる。それができなければ、仕事にならない。そして時には、上に述べたような難しいクライアントに真摯かつ粘り強く対応することも求められる。

人の要望を聞き、その欲するところを察知して良い形に仕上げるには、しばしば鋭敏な感性が求められる。一方で、大変なクライアントに当たった時は、真摯さとガッツを持続するタフさが必要だろう。ライターは、繊細でありかつタフであることが理想だと思う。

私の知るライターの中には、繊細さは備えているがタフさがないために疲れてしまい、ギブアップしてしまった人がいる。逆に、タフさは十分だが繊細さがないために、今ひとつ仕事で成果を出せず伸び悩んでいる人もいる。繊細さとタフさは両方必要だろう。ライターに限らずどの仕事でも同じだと思う。

心ここに在らず…

近頃の心境。これではいかん…と思う。

悩ましいのは、いっそのこと心が向いている方へ行ってしまうのがいいのか、いやいや夢なんて見るもんじゃないと心を現在地まで引き戻すか、である。

きっと、どちらも一理あって、上手いこと両立するよう努力することだ。まずは現在地で精一杯やり、心が向いている方へ少しずつ進んで行くべきなのである。