杉本純のブログ

本を読む。街を見る。調べて書く。

肉体と装い

夏目漱石は「中味と形式」(『漱石文明論集』(岩波文庫、1986年)所収)で、形式は内容のためにあるのであって、形式のために内容ができるのではない、内容が変われば外形も自然と変わると言っている。また加藤英俊の『取材力』(中公新書、1975年)の「材料七分、腕三分」には、文章の良し悪しは技術でなく素材に左右されると言う。漱石と加藤の見解と並べて考えると、形式を技術でいくら磨き上げても、材料という中身が駄目ならけっきょく駄目、ということであり、形式やそれを磨き上げる技術は中身に応じて良い形で用いられるべきだ…ということになりはすまいか。

他のライターの書いた文章を読んでたまに感じるのは、この文章は内容に応じた書き方をしてないな、装いは立派だが中身は大したことないな、ということだ。

文章だけはやたら持って回った、勿体つけた書き方をしている。けれども中身はぜんぜん大したことない。私はそういう書き方が嫌だが、それが往々にして「エモい」などと言われて高く評価されることが少なくない。

肉体が磨き上がってなければいくら装いが立派でも結局は駄目だろう。ブランドものの衣服やアクセサリをいくら身にまとっても中身が伴っていなければ駄目なのだ。逆に、そんなに中身が磨き上がっていなくても、それにふさわしい地味な装いをしていれば素朴で好感が持てることもある。装いが地味だとか派手だとかいうことはあまり意味がなく、中身をよく表しているかどうかが大事なんじゃないか。

佐伯一麦と東大寺

佐伯一麦『月を見あげて 第三集』(河北新報出版センター、2015年)の「大和路を歩く」に、興味深い記述がある。バスで東大寺に行った時のくだりなのだが、

 大仏殿の大屋根を飾る金色の鴟尾を眺めながら、大仏殿の昭和の大修理が行われていた頃、二十歳前後だった私は、たびたび大和路を歩いたことが思い出された。一九八〇(昭和五十五)年に大修理が終わり、落慶法要が行われた際には、それに合わせたテレビ番組の取材構成を受け持ったこともあった。

1978年に仙台から上京した佐伯は、蟠竜社というフリーライターの事務所に勤め、企画、取材、原稿執筆を全て行うライターを四年ほど続けた(二瓶浩明による年譜)。したがって、1980年当時はまだフリーライター業を続けていたことになるが、東大寺のテレビ番組の取材もその一環で引き受けたのだろうか。

1980年の東大寺落慶法要というと、実は私自身も、当時は生まれて間もない頃だが間接のそのまた間接的くらいに関係がある事案なので、佐伯のこの仕事が気になって仕方がない。。

それにしてもその番組は何というのだろう。

最初の記憶

佐伯一麦『月を見あげて 第三集』(河北新報出版センター、2015年)の「箒三兄弟」には、佐伯の最初の記憶について書いてある箇所がある。

 私は、子供の頃から箒が好きで、何しろ一番はじめの記憶が、庭箒を持って庭を掃いているというものである。ようやく歩けるようになったばかりで、胸ほどある箒にしがみつき、きれいに掃くというよりも、振り回されてかえって掃き散らしていく、といったものだっただろう。てんでばらばらに箒目を付けながら。

「歩けるようになったばかり」というと、生後一年経たないくらいで、記憶が始まる時期としてはかなり早い方ではないだろうか。三島由紀夫仮面の告白』には、主人公が、生まれた時の光景を覚えている、などと書かれているが、本当にそんなことがあるのだろうか…。ちなみに私の最初の記憶は恐らく四歳ごろ、親の後ろ髪を掴んで叱られる、というもので、叱られて恐怖を感じたのをぼんやりと覚えている。

快楽主義の巨人

澁澤龍彦の『快楽主義の哲学』(文春文庫、1996年)は大学生の時に知人に教えられて読んだ。澁澤にしてはくだけた語り口のエッセイで、当時は面白く読んだ記憶がある。しかし澁澤は本書を自分の著作集に加えることを嫌がったという話があったそうだ。

私は最近、ビジネス本とかビジネスマン向けの動画に接することが多いのだが、優れたビジネスパーソンや経営者の思考法や行動法について学ぶと、それって『快楽主義の哲学』に書いてあったことと共通しているな、と思うことがある。『快楽主義の哲学』には「快楽主義の巨人たち」という章があり、澁澤が考える快楽主義を大いに実践した歴史上の人物を紹介しているのだが、その冒頭にこう記されている。

彼らはいずれも、高い知性と、洗練された美意識と、きっぱりとした決断力と、エネルギッシュな行動力の持ち主でありました。

この章で紹介されている「巨人」とは、ディオゲネス李白、アレティノ、カサノヴァ、サド、ゲーテ、サヴァラン、ワイルド、ジャリ、そしてコクトーと、文学者が多いのだが、たしかにこの人たちには「高い知性」「洗練された美意識」「きっぱりとした決断力」「エネルギッシュな行動力」があると感じる。

そして、この人たちは一般的に「ビジネスパーソン」という言葉で括られることはないが、引用した四つの要素は、私が上記の通り最近よく接する動画や本で言われている優れたビジネスパーソンの条件に当てはまっている気がする。ビジネスだろうが文学だろうが何だろうが、仕事をがんがんやってしまう人には共通する要素があるのかも知れない。

佐伯一麦と「名古屋の喫茶店」

佐伯一麦は2013年の秋から冬にかけて名古屋に滞在し、知人に会っている(「名古屋の喫茶店」(『月を見あげて 第三集』(河北新報出版センター、2015年))所収)。

「名古屋の喫茶店」には、佐伯は週刊誌の記者をしていた時期、出張するビジネスマン向けに地方都市の紹介記事を書き、名古屋も取り上げたことがある、と書いてある。この随筆は名古屋と喫茶店についてごく簡単にかいつまんだ随筆なのだが、名古屋滞在の理由や、過去に佐伯が関わった雑誌のことなど、私としては色々と興味深い。

 今回の名古屋滞在で足を運んだのは、栄の地下街にある昭和二十二年創業の老舗の喫茶店の支店。

とある。昭和22年創業の名古屋の喫茶店というと「コンパル」か。コンパルは中区大須に本社を置く老舗喫茶店で、栄の地下街(森の地下街)には栄西店と栄東店がある。

川端康成と石塚友二「松風」

ある人物の詳細年譜を作成しようと思い、勉強のために小谷野敦・深澤晴美編『川端康成詳細年譜』(勉誠出版、2016年)を読んだ。

文字通り川端康成の詳細な年譜なのだが、川端自身だけでなく、鎌倉時代北条泰時九男の駿河五郎道時三男である川端舎人助道政という、川端家初代となる人物から始まっている。

ぱらぱらとめくると面白い箇所があった。1942(昭和17)年。

七月二七日、午後二時よりレインボー・グリルで芥川賞銓衡。予選委員。石塚友二「松風」を推す(受賞せず)。その後軽井沢へ。

八月一日、芥川賞決定、該当作なし。軽井沢から芙美子宛、芥川賞からこちらへ。「松風」は受賞せず。

八月三日、林芙美子より軽井沢宛、東京はうだるような暑さ、石塚は不運。

八月六日、芙美子宛、藤屋に宿確保、ご主人を先に待つ。「松風」は反対が絶対多数。(⑮)

などとある。「⑮」とは、『川端全集』補巻二(1984年)の「書簡来簡抄」が典拠になっているということだ。

私は石塚「松風」が気に入っているので、上記箇所は興味深かった。ちなみに「レインボー・グリル」という店は、『芥川賞直木賞150回全記録』(文藝春秋、2014年)を参照すると内幸町にあったようで、さらにWikipediaを参照すると、旧・日比谷ダイビルの地下一階に入居し、1944年3月に廃業するが、同ビルに入居していた文藝春秋関係者に親しまれていたことが『ダイビル七十五年史』に書いてあることが分かる。1944年廃業ということは、川端が足を運んだ約二年後に終わったことになる。

「松風」は「反対が絶対多数」とあるが、「芥川賞のすべて・のようなもの」を見ると、川端以外にも小島政二郎横光利一が推していたことが分かる。なかんづく横光は「私も年ごろで結婚に迷うものには、ぜひこの作を一読するように奨めている」とまで言っている。ただ瀧井孝作室生犀星宇野浩二久米正雄からの評価が悪く、特に宇野は評価が厳しかったようだ。

「言い出しっぺの法則」

そんな法則があるとは知らなかったが、身近なところに、言い出しっぺなのに実行は他人に任せてしまう人がいたのでイラついて、そういう人って他にもいるのかと思ってググったらwikiで出てきた。

法学者が定義した法則のようだが、言い出した人間が実行するのは当たり前だろうと思う。もっとも、経営者や管理職者など、人を束ねる立場の人が何か取り組むにあたり、部下にいろいろ指図するのは理解できる。

私の経験からすると、言い出しっぺなのに実行を他人に任せる人というのは、どうやら自分より弱い(と思っている)人をうまいこと丸め込んで実行させようとするようだ。言い出しっぺの方にそういう意図があるのかどうかは分からないが、結果を見るとそういう構図になっているように思う。

意志が強くない大人しい人は、こういう「言い出しっぺ」に丸め込まれやすい。要注意である。