杉本純のブログ

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「電工日誌」の謎

幻のエッセイ?

先日このブログで佐伯一麦のエッセイ「電工日誌」に触れました。『Nさんの机で』(田畑書店、2022年)の「流行歌」という章に、デビュー後に「新潮」の風元正の依頼を受けてそのエッセイを提出した旨が書かれていたのです。このブログの先日の記事ではその箇所を引用しなかったので、今日ここで引用します。

自分の結婚のいきさつを描いた「木を接ぐ」でデビューした私は、初めて「海燕」以外の文芸誌となる「新潮」編集部の風元正氏から、エッセイの注文を受けて「電工日誌」という文章を提出した。締切間際となり、メールもFAXもない頃だったので、電気工の仕事帰りに地下鉄東西線神楽坂駅近くの新潮社まで持参した。採用が決まり、ゲラになるのを待っているところに、風元氏から連絡があった。「掲載予定だった三十枚の短篇が入らなくなってしまったので、もし未発表の短篇があったら見せてもらえないだろうか」ということだった。

その短篇が「朝の一日」で、見せたら採用が決まって、「新潮」1986年12月号に掲載されました。だから私は、12月号には「朝の一日」と「電工日誌」の二つが掲載されたと思っていました。

私は「朝の一日」はすでに読んでいましたが、「電工日誌」は佐伯の年譜にも記載がなく、それまで存在すら知らなかったので、ぜひ読みたいと思って「新潮」12月号を入手しました。

しかし、見てみると12月号には「朝の一日」はありますが「電工日誌」はありませんでした。私はてっきり二つとも載っていると思っていたので残念でした。

奇妙なのは、佐伯は最初、エッセイを頼まれ、提出して採用が決まった後、別の作家による三十枚程度の短篇が出ないことになったから、という理由で短篇小説を頼まれて「朝の一日」を提出したのだから、「朝の一日」だけ載せてエッセイを割愛したのなら「新潮」はまたもや作品不足になったのじゃないか、ということです。まあ、当時の佐伯はまだ新人だったし、1号に2作品も掲載できないから短篇を出してくれるならエッセイはお蔵入りにしよう、という判断だったのでしょう。

「電工日誌」は書かれたものの発表されていない幻のエッセイかもしれません。ちなみに佐伯の日誌というと、「ショート・サーキット」の執筆時期に電工手帳に記していたものがあり、これは『ショート・サーキット』(講談社文芸文庫、2005年)に抄録されています。しかし「ショート・サーキット」は1990年発表なので、「新潮」に依頼されて書いたものではありません。

Nさんの机で