杉本純のブログ

本を読む。街を見る。調べて書く。

「高島平文芸」2

昨年6月、このブログで板橋区高島平の同人誌「高島平文芸」のことを書いた。その時は本誌を未読で、まずは現物に当たりたいと書いたが、一年以上経ってようやく読むことができた。

日本近代文学館(本館)に所蔵されていた。もっとも全てではなく、あったのは以下の9冊のみである。

・6号(1975年4月)
・7号(1975年10月)
・8号(1976年3月)
・9号(1976年10月)
・11号(1977年12月)
・12号(1978年11月)
・13号(1979年9月)
・15号(1981年10月)
・18号(1985年1月)

このたび私は上記全てにざっと目を通した。B5サイズで本文は3段組、表紙は見たことがない種類の紙だったが、恐らく高価なものではない。どの号もたしか100ページ未満で、薄い冊子である。

発行は高島平団地自治会文化部文芸サークルで、責任者と思われるのは高島平に住んでいた(る?)K氏である。またこれは別の本で知ったことだが、K氏は「高島平文芸」を創刊した人でもある。

どうやら年に2回の発行を継続していたらしいが、10号を超えた辺りから年1回へと発行回数が減っている。会員の出入り、それに応じて増減する会費の納入など、さまざまな事情があったことは、K氏による編集後記を読むと察しがつく。また何人かの会員が、原稿を〆切に間に合わせることができず、一次〆切日など最初から守る気がないどころか、中には二次〆切日に合わせて一次〆切日から書き始める人もいたようだ。

私はかつて川崎市の文学同人に参加していたが、そういう課題はやはりあった。会員が入っては辞め、作品が出たり出なかったり、会員の中には「書きなさい」と言われても「書けない」と言う人がいたり…(私もその一人だったことがある)。

そのくせ誰もが作家気取りをすることは一丁前で、合評会では他人の作品を分かったように批評するが自分の作品が批評されると怒りだす。それで合評会はしばしば諍いになったが、所詮はどんぐりの背比べ、目糞鼻糞を笑うといった感じの低レベルの合評会だった。「高島平文芸」の合評会がそうだったかは分からない。

前にこのブログで触れたが、「同人雑誌評の記録」によると「高島平文芸」は過去に3回、「文學界」の同人雑誌評に取り上げられたことがある。各号の執筆者は下記の通りである。

・1975年8月号 林富士馬
・1976年7月号 林富士馬
・1978年4月号 久保田正文

1975年8月号で林は、「高島平文芸」の存在を紹介しつつ具体的作品は取り上げていない。そのうえで「文学には、お茶やお花などの稽古ごとと共通する遊芸の側面もたしかにあるが」と、あたかも「高島平文芸」がそうであるかのような書き方をしている。

これに対しK氏は、7号の編集後記で、林に作品評なしで一蹴されたことへの怒りを表明している。もっとも、作品評が載るほど質が高い作品が「高島平文芸」にはないことを自覚しているようでもあり、悔しさが滲み出ている。

K氏は15号の編集後記で次のように書いている。

世に「作家」「文章書き」として売り出すサークルではないのだから、何の変哲もない日常のなかで十年間の自分の足跡がしのばれればそれで充分だろうと考えている

林富士馬の文章に怒りを覚えたくらいだから、最初からそう考えていたわけではないように思うが。

ちなみに私が所属した文学同人では、ある人が「この同人誌から芥川賞作家を出したい」と言っていた。一方でその人は、高齢の同人同士でよく懇親会を開き、旅行もしていた。別の同人は、そういう状況を見て「この文学同人は合評会より飲み会の方が多い」と言っていた。

「文学」は個人的営為であり、同人は素人同士が金を出し合うのだから仕事ではなく、志もそれぞれ。集団で意識を合わせて継続するのはかなり難しい。