こちらが求めていない助言をしてくる人、というのがいる。これについては、YouTubeのビジネス動画やブログで「縁を切るべき人」として紹介されているが、私も過去にそういう人と関わりがあった。どうして求めていない助言をしてくるかというと、まあほとんどがマウンティングである。お前はこういうところが不十分だからこうした方が良いぞ、と言うことを通して、私よりも優位にあることを示したがっている。
かつて、たまに連絡を取っていた年長の知人が、そういう人だった。今はもう連絡していないが、振り返ると、実に弁舌の巧みな、洗練されたマウンターだったと思う。初めは、私の書いた物に対し、婉曲な表現でやんわりと不足部分を指摘してくる。あるいは、文章中の些細な文法の逸脱や誤植などを指摘してくる。もちろん、私は書いた物を読んでくれとも言っていないし、まして批評してくれなどと言っていないのである。が、明らかな間違いの指摘は私としては感謝するべきことなので、一度は礼を言ったりもする。間違いの指摘は建設的で、だから本当に感謝しているのだ。ところがところが、どうやらその知人はそれで私に一歩踏み込めたとでも思うのか、次第に図々しくなり、頼みもしないのにあれこれアドバイスしてきたり、私を小馬鹿にする発言をしたりするようになる。
しかし、何度もやり取りをしているうちに気づく。そのやり取りにはけっこうな時間を必要とし、しばしばかなりイライラさせられるので、どうも自分はこの人に時間を奪われているのではないか、この人はけっきょく自分を捕まえて言いたいことをぺちゃくちゃ喋って楽しんでいるだけではないか、と。
それで私はやや強硬に言い返し、追い払おうとするのだが、知人はさらに手練手管を弄して私の懐深くにまで入り込んでくる。私が反論したり知人の批判をしたりすると、そうではない、私は君にこれこれこういうことを分かってもらおうとしているのだ、とか何とか、もっともらしく聞こえるセリフを上からかぶせてくる。あるいは、つい人を指導したくなる癖が出てしまった、スミマセン、などと言って行儀よく謝罪までしてくるのである。私は立場的に知人の下にあるので、指導しようとする気持ちや行為には感謝するべきであるかも知れないと思い、謝られると、ちょっと自分が言い過ぎたかも、などと考えてしまう。また知人は、何を言ってくる場合でも、最初に私の書き物や物書きとしての姿勢を褒めてくれて、いい気にさせてくれるのである。だから私はかえって、知人は心の底から強い熱意を持って私を指導しようとしてくれているのかも知れない、感謝しなくては…などと思い直したりもする。
しかし、知人はすでに私の懐に入っている。また数日経つと遠慮なく連絡してきて、ああだこうだと要らぬ助言をしてくる。見ていると、どうやら私の不備を指摘して駄目だと言ったり、あれこれ注文を付けたりするのが楽しくて仕方がないらしい。私がまたブチ切れて反論すると、同じようにフワリとかわして、上から包み込もうとする。その繰り返しである。
私は長い間、この知人に苦しめられ、時間を奪われたが、いま言えるのは、知人は私にマウントかけているという自覚などなかったのだろう、ということだ。知人は恐らく、意識の上では本気で私を指導鞭撻しようとしていた。私が先に書いた「洗練」は、まさにこの自覚の欠如と無関係ではなかろうと思われる。
しかし一方で、私は私で、知人の言葉は明らかに余計な助言であり、マウンティングだと確信している。知人は、私に助言したことを自分ではやったことがないからである。やったことがない以上、私に助言などできるはずがなく、単なるマウンティングでしかないと思う。やったことがない人の助言は、聞かなくていい。