佐伯一麦と工学者の小出裕章が、2011年12月に対談した。そのことを私は佐伯『月を見あげて』(河北新報出版センター、2013年)の「蕎麦屋にて」で知った。
「蕎麦屋にて」には「総合雑誌で、小出氏に反原発の人生を語ってもらう企画があり、私にインタビュアーの依頼が」あった、と書いてあるが、さてどの雑誌だろうと思って調べたら「新潮45」だった。対談が行われたのは2011年末だが、記事が掲載されたのは「新潮45」2012年2月号である。記事のタイトルは「『反原発』という人生」。特集「原発を考える補助線」の中の記事の一つである。
小出裕章さんと言えば、私は東日本大震災の原発事故の後、原発とか原子力とか放射能とかを知ろうとする過程で知り、同時にその反原発の考え方にも接して、一時期は傾倒していた。今ではその時ほど傾倒はしていないが、鎌田慧さんのような気骨の人、反骨の人という印象を抱いている。
「新潮45」の当該号をさっそく読んだのだが、そもそもどうして小出さんのインタビュアーに佐伯が当たったかについて、編集部からの経緯の説明らしきものも見当たらないし、対談の中にも書かれていない。ごく普通に考えて、小出さんと佐伯の取り合わせはかなり凝ったものだと言えるだろう。二人に関する一定量の基礎知識がなければ考えつかない企画である。
『月を見あげて』の「渡会正蔵先生のこと」(初出は河北新報2011年4月22日夕刊)に、佐伯が小出さんの震災後の発言を注視していると書いており、河北新報などに載った小出さんのインタビュー記事が読み応えがあったとも書いている。渡会正蔵とは、仙台一高の化学の教師で、佐伯の恩師でもあったが、女川原発訴訟支援連絡会議の代表も務めていた。そして、小出さんは女川原発の反対運動に関わっていた。佐伯と小出さんには思想的な共通性があるのが窺えるし、二人には東北や女川や渡会正蔵という共通項もある。推測だが、編集者は河北新報を読み、二人に関する上記のようなつながりを見出して、対談を企画したのではないか。
さてこの対談記事の中身だが、実に面白い。佐伯はここでは聞き役に回っており、小出さんが自分の人生と反原発の思いを語る過程で、ときどき自分の考えや実体験を差し挟んでいる。
小出さんが反原発に転向したのは1969から1970年にかけての頃だったことが、この対談を読むと分かる。その頃、佐伯は十歳くらいで、仙台一高で渡会正蔵に接するのは1975から1978年の間だったはずである。二人は、けっこう近接していたと言える。
佐伯は対談の中で、高校時代は原子核物理をやりたいと考えていたが、女川の原発反対運動を知り、「科学が悪を内包していること」を学んだ、と話しているのだが、作家を目指す前に原子核物理をやろうとしていたとは知らなかった。また対談の終わりの方では、佐伯の高校の同級生の一人が医学を志したが解剖実習をした後に自殺したこと、もう一人がオウム真理教の方に行ったという噂があったことが語られている。これも知らなかった。
いろいろと発見のある記事だった。ちなみに、この対談の後に二人は蕎麦屋で酒を飲んだらしく、その経緯が『月を見あげて』の「蕎麦屋にて」に書かれている。対談時間は一時間だったが、夕飯を食べながら続きを話さないかと、小出さんの方から誘ったようだ。小出さんが対談の一時間で心を開いたのだろう。蕎麦屋でもさまざまなことを話したようだが、どうやら対談記事は蕎麦屋での対話の内容もまとめて編集したようだ。