杉本純のブログ

本を読む。街を見る。調べて書く。

へその緒と正札

作家がへその緒を切る勇気がなかった作品はたくさんある。作家が正札を外さなかったプレゼントは結構あるものだ。作家がそれを書くためにどれだけの努力を払ったかを読者が知るのは妥当なことだろうか。知ることが礼儀に適っているのだろうか。

と、アニー・ディラードの『本を書く』(柳沢由実子訳、パピルス、1996年)にある。その下りの前の箇所も併せて読むと、つまり、作家本人は、作品のある箇所を、自分がそれを書くのにとても苦労したから取っておきたい、と思って作品から削除しない例が多いが、読者は作家がどれだけ苦労したかになんて興味がないんだから、さっさと切り落とせ、ということだろうと推察できる。

この本は松岡正剛さんの「千夜千冊」にも紹介されていて、まったくその通りだと松岡さんは書いている。それを読んだ当時の私は二十代か三十代の前半だったが、この一節にいたく感激したのを覚えている。

私も、そのこと自体はいちおう正しいと思う。特に文章を書いている時は、興に乗じてどんどん筆を進め、これは名文が書けたぞ!と悦に入ったり、逆に、時間をかけてひねり出した一言一句が愛おしく思えたりすることもあるが、そういうのは読者にはぜんぜん関係ないことで、作品の主題にぴったりこない箇所であれば思い切って抛棄するに限る。

けれども、書かれた作品について、読者が作家から種明かしをされない限り、「へその緒を切らなかった」だとか「正札がついたまま」だとかいうのを正確に察知するのは難しいだろうと思う。ある程度、読み手としての眼力が上がってくれば、ははぁ、ここは作家が切り落とすべきなのを切り落とさなかったところだな、と推察できるかも知れない。けれども、作家がその箇所を残したのが「努力したのを切るのは忍びないから」か、そうでないか、を知るのは難しいと思う。