杉本純のブログ

本を読む。街を見る。調べて書く。

『福武書店30年史』

1987年に出た福武書店の社史『福武書店30年史』を読む機会があったが、ここは佐伯一麦と縁が深い「海燕」を出していた出版社なので、興味深かった。

奥付を見て驚いたのは、この本は1987年(昭和62年)に第一刷が出ていて、1990年(平成2年)に第二刷が出ていることだ。つまり増刷しているということで、よほど世間の評判が良かったのか、読みたいという人が多かったのだろう。

本書は全6章構成になっていて、第1章は創業前史になっている。口絵で創業者である福武哲彦の足跡を写真と共に紹介しており、その流れで第1章に突入していく形である。ちなみに、冒頭には当時の「現役員」が会議をしている風景の写真が載っているのだが、ここには「海燕」編集長の寺田博の姿もある。

全編を細かく読んだわけではなく、気になったのはやはり「海燕」の創刊前後のことである。それは第5章「文化化・情報化・国際化を目指して」(昭和55~59年)に書かれている。

福武書店は、総合出版社の名に恥じない出版物として「雑誌」を当初から企画していた。雑誌を経営的に成功させるのは難しいが、一流出版社に伍していくためにはぜひとも手掛けたい分野だったという。

そんな折、作品社の文芸雑誌『作品』が廃刊となったのを知り、その編集スタッフ五人全員(文芸雑誌を五人で編集していたのね)を迎えて昭和56年(1981年)7月に文芸部を新設。文芸雑誌の創刊と文芸書の刊行に取り掛かった。

面白いのは誌名が決まった経緯で、多くの候補の中から社員案と文芸部案を合わせて20案に絞ったものの、これというのがなく決定は難航した。そこへ埴谷雄高から「日の目は見なかったが,かつて“海燕”という名の雑誌を企画したことがある」という話がもたらされ、案に加えたところ、社長がためらうことなくそれを選び、決定したのだという。「嵐に立ち向かう海燕(うみつばめ)のイメージが深い共感を呼んだのである」とある。

社史本文の下部には写真などを掲載するスペースがあり、そこに「『海燕』の意味するもの」という、社内報『おおぞら』昭和56年12月号に載った寺田の言葉が紹介されている。

 海燕は,ロシア語でプレヴェーストニックといい,語源的には「嵐を告げるもの」というんだそうです。(中略)嵐がくると鷹や鷲などとい鳥は,岩陰に隠れて嵐が通りすぎるのを待っている。ところが海燕は,海の上を飛び交って逃げ隠れしないんですね。私どもとしては,嵐というのを現代の文学的危機状況,つまり,活字離れとか,近頃の小説はつまらないとかいうような危機と重ねて,文芸雑誌『海燕』は,そういう状況から逃げ隠れしないで,堂々と立ち向かっていこうというつもりなんです。

海燕」最終号には、誌名はゴーリキー散文詩に由来していると書かれているのだが、元は埴谷雄高からの情報だったのだ。