杉本純のブログ

本を読む。街を見る。調べて書く。

努力と忍耐

私は常に「努力」と「忍耐」をはき違えないよう気をつけている。これを最もはき違えやすいのが仕事の場でのことで、長時間働いた、上司の命令に文句も言わず従った、というようなことを「頑張った=努力した」と表現するのである。

しかし、そういうのは私の考えでは「努力」ではなく「忍耐」に過ぎない。美輪明宏さんはいつか「給料は我慢料」という風に言っていたが、仕事において労苦を伴う行為は、たいてい忍耐だと私も思う。これに対し、誰に言われるでもなく仕事外の時間に本を読むなどして学習し、それを実戦で試して身につけたのであれば、それは「努力」の賜物と言えると思う。だから私は「努力=勉強」と捉えており、それは人から言われてやるのではなく、自ら発想し、時間を作ってやるものである。つまり、同じ労苦を伴う行為でも、忍耐と努力ではその内容が本質的に違うのだ。

しかるに、努力も忍耐も、仕事の「成果」には直接関係しない。成果が生み出される過程はさまざまで、努力による場合もあれば忍耐による場合もあり、それ以外の行為に起因する場合ももちろんある。

何が言いたいかというと、自分が仕事を通して価値を提供する顧客は、成果を求めているということ。努力や忍耐を求めているわけではない。これも間違えやすいところで、いくら努力しようが忍耐を重ねようが、価値ある成果を顧客に提供できなければ何の意味もない。

顧客から、あるいは社内で下される「評価」も同じで、努力したから、忍耐したからといって評価につながるわけではない。頑張ったから評価されるべきだ、と言う人がたまにいるが、私は気持ちは分かるが賛同はできない。徹夜しようが、週末を返上しようが何をしようが、究極は当人の勝手であり、それをしたからといって成果が出るわけではないし、相応の評価が約束されるわけでもない。

頑張った人は報われてほしいという思いは、私もある。しかし思いと現実は必ずしも合致しない。以前インタビューしたある会社役員が、「社員はよく頑張りますと言うが、頑張らなくていい、普通に働いて成果を出せ」と言っていた。その通りだと思う。