杉本純のブログ

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作家の「肚」

近ごろ、小説を書く上での書き手の「肚」について考えることがよくある。

思うに、小説を上手く書き進められない人の多くは、「肚」が据わっていない状態なのではないか、ということだ(その「人」には私も含まれる)。

例えば、主題を決める、人物を決める、プロットを組む、など、順番は人それぞれかも知れないが、たいていの人は本格的に書き始める前に何かしらの準備をすると思う。しかし、準備というのはし尽くせるものではなく、巨細にわたって決めたにも関わらず書き進められないことも往々にしてある。その理由の一つは、「肚」が決まっていなかった、ということではないだろうか。

「肚」というのは感覚的な気がするが、二人の作家がこれについてかなり説得力のある言説を提示している。

一つは小説ならぬノンフィクションの書き手である立花隆の言葉である。

立花は『「知」のソフトウェア』(講談社現代新書1984年)で、「コンテ型」と「閃き型」という二つの書き手のタイプを紹介している。そこでは、「コンテ型」を次のように説明している。

これが最適と思われる流れを、はじめに思弁によって策定し、その流れに沿って人工的に運河を掘削してしまい、そこに材料を流し込むと、アーラ不思議(というか、あまりにも当然にも)、流し込まれたものは掘られた運河にそって流れていく。

対して「閃き型」については、

水をして流れるにまかせるが如く、材料をして流れるにまかせれば、材料自身が最適の流れを発見するだろうという考えの上に立つ。「上善は水のごとし」というではないか。材料を料理してやろうと意気ごまずに、むしろ材料に料理されてやろうと思っているくらいのほうが、材料を充分に生かしたよい料理ができるものである。

と述べている。そして立花自身は自分は「閃き型」だと言っている(まったく何の準備もしないわけではない)。ちなみに私は、この区分なら自分は「コンテ型」だが、最近はいくらか「閃き型」になってきたと思っている。

ここで書かれている「閃き型」というのが、「肚」が据わっている人であると思う。「肚」が据わっているからこそ、あらゆる出来事や登場人物の位置関係・役割が分かっていて、おおよそどんな話であるか(ストーリー)であるかも頭に入っているので、その流れに従って次から次へと書き継いでいくことができる。つまり、「肚が据わっている」とは、主題とかストーリーをきちんと肚におさめている状態であると思う。

また、これは私見だが、たとえ「コンテ型」であろうと、作品の中心的な部分をきちんと掴んでいなくては、いくらプロットを細かく組んだところで上手く書き進められないのではないだろうか。「閃き型」と「コンテ型」は、要するにおおざっぱであるか事細かであるかの違いに過ぎないのではないかとも思っている。

もう一つの言説は、川端康成による、文字通り「肚」という語を使ったものだ。

川端は『小説の研究』(講談社学術文庫、1977年)で次のように述べている。

 実際創作に当たっている人の体験を聞くと、日本の作家にはあまり筋(プロット)を考えずに、書き出しにいろいろと苦心をし、後はその場その場で最も妥当と思われる方向に小説を運んでゆくという人がかなりいるようである。また最初から作品の筋を全部考えておいて、それに従って整然と書き進めるといい方法による作家もある。

 これは両方ともプロットがあるのであって、前者はとかくプロットがないように考えられがちであるけれども、これは間違いである。主題がはっきりときまって作者の肚ができ上がっていれば、プロットは自ずからきまつてゆくことが多い。

二人の言説は、それぞれ「肚」とは何かを教えてくれると思う。

小説であろうとノンフィクションであろうと、話を書くためには、「それがどんな話であるか」という中心をきちんと掴まえているべきであると思う。