杉本純のブログ

本を読む。街を見る。調べて書く。

プロット

ディーン・R・クーンツ『ベストセラー小説の書き方』(大出健訳、朝日文庫、1996年)を、特にベストセラーを生み出したくはないが生み出せたらそれはそれで嬉しいな、という気持ちで、ただし小説の書き方本は日常的に読んでいるのでその一環みたいな感じで、読んでいる。

その第四章は「ストーリーラインを組み立てる」というタイトルで、その冒頭には「プロットは小説の最大必要条件だ」とある。ただし、プロットのない小説も実験小説になり得るかもしれず、たまには読むに耐えるものになるかもしれない、と書いてはある。が、おおむねプロットを無視した小説は否定的なようだ。

 書きすすむうちに登場人物たちがあまりにもいきいきとして魅力的になってきたために、作家があらかじめ用意したプロットや小説全体の流れを、主人公たちの成長や変化に従って、変更する気になることがしばしばあるというのは事実だ。プロの小説家ならだれもが、こういううきうきするような経験を味わっている。しかし、作家が登場人物に小説の方向や狙いや内容のすべてをまかせてしまえば、必ずみじめな結果におわる。

我が意を得たり、である。

むかし文学同人に所属していた時、小説世界に没頭していると人物が勝手に動き出すことがありますか? などと聞かれ、それは一応あると思ったので頷いたが、それを聞いた同人がやたら私に共感していたのを見て、私はちょっと違和感が残ったことがある。

人物が勝手に動き出すこと全体を否定はしないが、じゃあ何でも人物の思うままに小説を進めてしまっていいのかというと、違うと思う。

もしも作家が登場人物たちに全権をゆだねてしまったら、知性という冷静で確実な案内人なしに、作品を書くことになる。その結果は、世界に起こる多くのできごとと変わらぬ、形も意味もない小説ができあがり、そんな小説が多くの読者をがっかりさせるのは目に見えている。