杉本純のブログ

本を読む。街を見る。調べて書く。

暗闇の道のビール瓶のかけら

三島由紀夫の『小説読本』(中央公論新社、2010年)の「わが創作方法」(初出は『文学』1963年11月号)で、三島は、自分の長篇小説の創作方法の第一は「主題を発見すること」と述べている。

 材料はどこにでもころがっているのである。ただ、或る時点における私の内的な欲求に、ぴったり合う材料というものはなかなかみつからない。私たち小説家は、懐中電灯を手にして暗闇の道を探し歩いている人のようなものだ。ある時、路上のビール瓶のかけらが、懐中電灯の光りを受けて強くきらめく。そのとき私は、材料と共に主題を発見したのである。

 ある材料が私に及ぼす魅惑は、はじめのうちは何故それがそんなに魅力があるのかまるでわからないが、無意識のうちに、そのときの私の内的欲求が丁度それに相応するものを、その材料の中に見つけだしているからである。その不可解な魅惑は、材料自体の属性であるというよりも、私自身の内的欲求がそこへ投射されたものである。私はそこに、われしらず、一つの「主題」を発見したのである。

暗闇の道のビール瓶のかけらという比喩が面白い。

私自身、素材は周囲にいくらでも転がっていると思う。だからツイートネタやブログネタに困ることはほとんどない。ただし、仕事などに忙殺されて心の余裕を失っていると、街を歩いても本を読んでもそこから何も吸収できず、それどころか何も感じられないというつらい時間が続く。あたかも心の部屋が焦燥や苛立ちに充たされていて、新しいモノが入る余地がないような感じだ。しかし、やはりネタ自体はどこにでもあるという事実は変わらないと思う。

けれどもそこから一つの小説にしていくとなると、途端に難しくなる。構想を練り上げても、いざ書き出してみると人物がその構想を破るような方向へ進み出したり、構想時点では面白いと思っていたのに文章化してみるとぜんぜん面白くなかったりする。