杉本純のブログ

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良い文章 良いライター

先日、あるライターからこんな質問を受けた。

「良い文章ってなんですか?」

こういう問いは、20〜30歳代前半の若手の、経験の浅い、まだ物事を相対化できていない人がよくしてくる印象がある。

その時私は、「読みやすく、分かりやすい文章」と一応は答えたが、単に私がそう思っているだけで、実を言うと、文章の善し悪しに基準はない。しかし、そこまでは言わなかった。

相対化できていないということは、絶対化しているということだ。つまり、ある「良い文章」という文章があったら、それは世界の誰がどういう目線で見ても「良い文章」になると思っているということである。

それはあり得ない。いかなる文章も、好む人と好まない人がいて、そうであることが健全だと言える。百人読んで百人とも良いと言う文章など、おかしいし、気持ち悪いし、そもそも存在しない。

つまり、私に質問してきたライターは、自分の文章に自信がなく、だからこそ「良い文章」の定義を知りたがっていたのだろう。その定義にかなう文章を書けばいいだろうということである。それは、残念ながら存在しないのである。

それに私が答えた「読みやすく、分かりやすい」というのも実は主観的である。ある人には読みやすく分かりやすい文章が、他の人にとってもそうであるとは限らない。

「かっこいい文章」「エモーショナルな文章」などというのも同じことで、文章から受ける印象は読み手によって異なるのだ。

だから文章の価値に絶対はない。もちろん文法、語義の誤りなどは善し悪し以前のベースとして存在し、誤用は誰が何と言おうと誤用である。レトリックの使い方も同様だ。

ちなみに「腕のいいライター」というのも似たようなもので、どんなライターにも得手不得手があり、ある発注者からは評判が良かったライターが別の発注者からも高い評価を得るとは限らない。だからベテランライターがうまくいかなかった案件を新人ライターがうまいことやってしまうことなども起こりうるのである。ただし、難しい仕事でもそれなりに乗り切ることができてしまうのは経験値があるからこそという面もあり、ベテランがベテランであることが無意味だとは言えない。

すべては相対的である。だが知識の有る無しは画然としている。だから私は知識に頼る。得意分野の知見を高めておけば、その分野でのライター仕事の質を相対的に高められると思っている。